精神病は病気ではない
精神科医が見放した患者が完治している驚異の記録
萩原玄明・著 ハート出版 
第6章 精神病は必ず治る
2.簡単ではない道のり

 「治す」ことを目的とした供養では治らない

 もう一度、憑依と精神病の関係を思い起こして下さい。
 たしかに供養をするたびごとに、死者は一人ずつ成佛して行って憑依を解きます。すると私たち人間は、精神病の特効薬のように供養を考えがちですが、こうすればこうなるという物理や化学の定理公式みたいなものとは全く別の世界のことです。
 まず「供養ありき」なのです。
 供養によって何かがどうなるというのは、供養をした人の魂の状態によってのことで、事前に予測も計画もできません。
 どうもこの世の人間は理屈を頼りにばかりしていて、何でもハウツー方式で解決して来たために、理屈の外の心の世界のことまでその方式で思考しています。霊視でわかったあの人を供養すれば、その分だけ治って行くのか、よし供養だ。どうだろう、供養をしたからその通りになったかな――では、何故か結果を見せていただけないと知って下さい。
 供養は治すことを目的にしてはその意味を失います。治るのは供養の結果です。
 難しいことですが、病者のことを一時脇に置いて、ただ一心に次々と死者たちの供養を続けるのです。そしてある日、ふと病者を振り返ってみると治っている――そうしたものなのです。
 簡単なことではなさそうだと不安になられた人もあるかと思います。
 しかし、もう一度申します。確かに簡単な道のりではありませんが、供養を一つでも二つでも始めると次第に死者たちの心がよくわかって来ます。わかって来ると供養そのものの意味もよくわかって来ます。そして、供養が少しも苦にならず、むしろ、供養できるわが身のしあわせで一杯になって来ます。
 供養をして行くことで、供養の心というものが体得できるからなのです。こんな心境に到達できた時、息子の、娘の、夫の、妻の病状をふと振り返って見て下さい。
 長い間苦しんでいた精神病が嘘のように完治して、何年か前の明るい利発な声で笑ってくれるのです。
 その日に到達するためには、あなたの家では百回の供養が必要だと、もし御佛(かみ)に告げられたとして、そんなに大変ならとても駄目だとあきらめることができるでしょうか。できるできないで、やったりやめたりするのが供養なのでしょうか。たとえ何百あろうとも浮かばれていないかけがえのないご縁の人々をすべて成佛させることを、精神病治癒の願いよりも優先先行させるのです。
 しかし、たくさんの人を供養するには時間がかかる。わが家の現状はすでに極限に来ているのだから、そんな悠長なことをしているわけにいかない、せっかくだがとても――と、急に解決の手掛かりが遠くへ去って行ったように思う人もあるかもしれません。
 それも、肉体世界、物質世界における物理的思考の範囲の中にまだ低迷している証拠といえます。真の供養の心があなたの中に醸成されれば、その心は直ちに死者に感応します。通じて行くのです。
 必ず供養してもらえる――という死者たちの確信が、どれほど死者たちの魂をなごませるか、それは想像を超えるもののようです。これまで子孫に切ないまでの思いを送り続けて来たけれど、ようやくわかってもらえたらしい。あの分なら間違いなく順番でいつかはきっと供養してもらえるだろう。そうした死者の安らぎの意識はすなわち憑依の終了です。
 供養によって、自分の心が一段一段と死者を思う愛に溢れて来ると、そうした心と連動するように病者の病状が一段また一段と明るい方向に変化して行くことも、体験としてはっきり自覚させてもらえます。
 こうした嬉しい体験は、一生けんめいな家族に対し御佛(かみ)が「供養するというこの道を迷わず進めばよい」と、元気づけるように励まして下さっているとさえ思えます。
 いろいろお話するより実際に体験してわかっていただきたいのです。
 終わりは必ず来ます。そしてまた、終わるまでは絶対に終わらないのも確かです。
 このように、きびしい感じで断言している私にしたところで、数年前までは、まだまだ終わりそうもない状態、つまり、なかなか治って行く気配が見られない状態が続きますと随分迷ったものです。
 何かほかに手だては無いものか。御佛(かみ)は今一体何をお考えなのだろうか。
 少しも快方に向かわない気の毒な病者の姿を思い浮かべては、何故か流れ出て来てしまう涙に困りながら一心に祈り願ったことも随分ありました。
 が、そんな気持で、ただ御佛(かみ)にすがるように祈っていた自分の愚かさにもやがて気がつきました。御佛(かみ)に頼ってどうするんだ。頼って願ってそれで救って下さるような、そんな都合のいいことを期待するのは間違いだ。この世に執着して迷っている死者たちを、一人一人探し出し、少しでも早く帰るべき所へ帰してあげることこそが私の使命なのだとようやく気付いたのです。
 御佛(かみ)はそれを待っておいでだったのです。そう思いなおしてからは、以来、供養ただ一筋に道を定めて今日に至っています。
 供養とは、ただ供養して迷える死者を成佛させることだけにとどまりません。御佛(かみ)の教えを受けるための入り口でもありました。
 
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