を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第1章 人生を逆転する鍵

 逃げる者に安住はない

  世を捨てて山に入る人山にても
   なほ憂きときは何地ゆくらむ

           (凡河内躬恒)


 二宮尊徳翁などは、道歌というものを意識的につくった人ですが、作者にその意図がなくとも、読むほうには道歌あるいは教訓歌として受けとることができる――そういう歌(あるいは句)が少なからずあるものです。
 たとえば、万葉集・巻五にのっている、山上憶良の有名な、

  (しろがね)も金(こがね)も玉もなにせむに
   まされる宝子に如(し)かめやも


 などがその一例です。
 憶良はべつに人びとに教訓をたれようとして、この歌を詠んだのではない。わが子にたいする思いを率直にうたったのにすぎない。
 しかし私たちはこの歌から、金銀財宝などとは比較にもならぬ、子というものの尊さ、ありがたさを、いまさらのように感じとることができます。“子宝”というコトバの意味深さを、あらためて思うのです。

  (た)くほどは風が持てくる落ち葉か

 という良寛和尚の句が私は大好きで、これを「食うほどは神がくださるおあしかな」と翻訳(?)して、自分の人生観や金銭観の骨子のひとつにしています。良寛さんが「感想をのべる」というていどの軽い気持で詠まれたであろう一句を、私があえて道句にしてしまい、そしてこれに惚れこんでいるわけです。
 さて、「世を捨てて……」の歌は、古今集・雑の歌の下に出ているもので、詞書に、「山の法師の許(もと)へ遣(つか)はしける」とありますから、知人のお坊さんへの語りかけであり、「世のなかがイヤになったからといって、世を捨てて山のなかに入ってしまわれたが、山のなかがまたイヤになったら、こんどはどこへゆきますか?」と、皮肉めいた調子で問いかけているわけ。だから、道歌を意図してつくったものではないのだが、しかもこの歌は、大きな、また普遍的な教訓をふくんでいます。たとえば、さきの銀行員君などには、まさにドンピシャリの歌です。
 すでにおわかりのようにこの歌は。「逃げる人に安住の地はありませんヨ」と教えている。まったくそのとおりで、いちどでも逃げたら、かの青年のように、「死にたい」とまで追いつめられるほかはないのです。

  来てみれば山には山の暑さかな

 は、加賀の千代女の句です。「山へ入ったら涼しいだろうと思ってきたのに、やっぱりここも暑いワイ」という嘆息です。
「徒然草」の吉田兼好法師は、「世を遁(のが)れてのころ詠みはべりける」と題して、

  住めばまた浮世なりけりよそながら
      思ひしままの山里もがな


 と歌っています。
「都をのがれて山に住んでみたら、ここもやっぱりウルサイことの多い浮き世であった。理想郷として想像していたとおりの山里があればよいのに(そういうところはこの世にないのだろうか?)」と幻滅の悲哀をうたったわけ。法師としては、ひとつの悟りであったのでしょう。

  極楽ははるけき程と聞きしかど
   勉めていたるところなりけり


「極楽とは死んでからゆくあの世の美しい世界である、とか、十万億土の西のかなたに浄土がある、などと聞いていたけれど、悟ってみたらなんのことはない、いまなすべきことに励んでいるここが極楽だった」という意味。「いま、ここ」を極楽にできない人には、この世のどこにも極楽はないゾという教えです。カール・ブッセのかの有名な、「山のあなたの空遠く……」の詩にしても、メーテルリンクの戯曲「青い鳥」にしても、みな同一の真理を教えています。幸福をよそや未来に求めていては、「涙さしぐみ帰りきぬ」となるほかはないでしょう。
 戦前、八波則吉という国文学者がいました。道歌の研究家でもあり、これについての著書もあれば、ラジオの修養番組で放送されたこともありました。
 この人のある知人が、なにか一時の興奮にかられ、多年の教職をなげうって、田舎に帰って百姓になるつもりだと、八波氏に手紙を書いてよこしたことがあったそうです。氏はあまり忠告がましいことを言わず、ただ「世を捨てて……」の凡河内躬恒の歌を書いて、返事のかわりとした。知人はそこで思いなおし、べつの学校に就職し、のちに教育者として大成したということです。
 後年、二人が会ったとき、その知人は、「あのとき、あの歌のおかげで、あぶないところを助けられたよ」と礼を言ったそうです。道歌にはこういう実用性がある、という一例です。古歌を借りての忠告だからカドがたたないし、かつ、その教えがソフトに心に響くので、受け入れやすいのです。
 夏の暑さをしのぐことを銷夏といいますが、さて、いちばんすばらしい銷夏法とは何か? いわゆる避暑をしてみても、千代女と同じ嘆きをもつことになりかねません。
 最良の方法は、暑さから逃げようとせず、逆に、その中にどっぷりとつかってしまうことです。炎天の下でスポーツなり、肉体労働なりによって、汗みどろになる。そのとき、暑さは苦痛ではなくて、快いものになる。これが快ければすでに、暑さは「しのげた」ということです。
 一事が万事で、つらい状況から脱する方法は、その中に飛びこんでしまうことの他にはない。「逃げるから苦しくなる」のであるからです。 
 
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