を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第1章 人生を逆転する鍵

 苦しみは「天の情」だ

  夕立と姿をかへて山里を
   恵む情ぞはげしかりける


“慈雨”というコトバがあるように、雨はたしかに恵みです。人の生活に。ぜったいに必要なものである。これが足りなかったら、水が飲めなくなる。米も野菜も実らない。長いユーウツな梅雨があるからこそ、秋に米が実って、私たちは飢えないですむ。だから、雨というものには感謝しなくてはなりません。
 これは容易にわかることだが、あの夕立(豪雨)というヤツはどうだ? ふつうの降りかたをすればいいのに、なぜ「姿をかえて」あのように降る? 人にとっては迷惑でしかない。なぜあれが「恵む情」なのであろう?
 尊徳翁の高弟、福住正兄は、つぎのように注釈しています。
 ――夏の夕立は、雷は鳴りはためき、稲妻はひらめきわたり、烈風暴雨、なんとも名状すべからざる暴虐の姿なれど、天心はさにあらで、慈仁より出で、人民のために降らしたまふ潤雨なることは著し。かくのごとく烈しからざれば、炎熱むすごとき暑さにて生じたる、田畑の諸虫死せざればなり。これ天の荒霊のはたらきなり。――
 夏の豪雨がないと、田畑を荒らす害虫が猛暑によって急にふえ、収穫量をへらしてしまう。夕立のおかげでこういう虫たちが死ぬので、ゆたかに作物が実るのである、というのです。
 なるほど、農薬をつかう時代には把握できない、大自然の玄妙なる摂理なのでしょう。人の生活には迷惑でしかないような夏の豪雨が、じつは人の生活に味方し、これを助けているのでした。これによって死ぬ害虫の数は、ものすごいものであるにちがいありません。夕立は、姿
をかえてはげしく降るからこそ、「恵む情」であるわけです。
 だが、むろん翁は、夕立そのものについて説かれたのではない。夕立という自然現象に託して、人間の世界のひとつの法則を教えられたのです。その教えとはいうまでもなく、「困難、困苦こそがありがたいのだ。それによってこそ、人は心のなかの害虫をとり除いて、自分を磨き、成長してゆくことができるのだ。苦こそが“恵む情”なのだ」ということでしょう。

  苦しみてのちに楽こそ知らるなれ
  苦労知らずに楽の味なし


 苦と楽とは相対的なものなのだから、苦を知らずして楽のあろうはずはない。それなのに、苦はイヤだ、楽のみほしいという。これは、夕立はイヤだ、雨はいつも静かに降ってくれ、というのと同じワガママです。苦はどうしても乗りこえなくてはならないもの、逃げたらますますふえるものであり、乗りこえた苦が大きいほど、そのあとの楽も大きいということになる。自分が成長できることほど、大きな楽はありえないからです。「艱難なんじを玉にす」といいますが、「夕立と姿をかえて……」の歌のほうが、同じことを言っていながら、√心にソフトに響く。何度も申すように、このへんが道歌ならではの妙味です。
 道句にも、同じ意味のことを語ったものが、いろいろあります。

   雪の竹たたくも慈悲のひとつなり
   じりじりと照りつけられて実る秋


 などです。
 自然界の万物は、寒い冬、暑い夏のおかげで成長を全うする。人間においても事情は同じで、苦やきびしさによってこそ、人として実ることができる。人のためにも“天の荒霊”ははたらくもので、だからきびしい困苦や逆境が、人によってはあたえられるのでしょう。
 失恋をした。つらい。かなしい。しかし、そのつらさに耐えることによって、心の深みを増すことができる。人として一歩成長できるし、異性を見る眼も肥える。ならば、失恋こそはありがたい、かけがえのない体験であった。天からの「恵む情」であった。そう考えることができるし、そう考えなければ、その苦を乗りこえることはできないでしょう。失恋は一例にすぎない。自分の身にふりかかる苦はすべて、そのように受けとって乗りこえるしか、道はないはずです。
 かの銀行員君も、不得手なポストに配されたことを、「恵む情」と受けとるべきだったのでした。 
 
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