を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第1章 人生を逆転する鍵

 何が「禍」で何が「福」か?

  宿かさぬ人のつらさを情にて
    朧月夜の花の下臥(したぶし)
         (太田垣蓮月)


 蓮月尼は、幕末のころの女流歌人で、志士たちとの交わりもありました。二度夫に死別し、4人の子も失ったため、33歳で頭をまるめて仏門に入る。そういう不幸のせいか、たいへんな人ぎらいとなり、「居留守の蓮月」とまで言われたそうです。
 この歌は、道歌を意図してつくられたものではないが、読むほうはそこから、小さからぬ教
訓を得ることができます。それで、あえてとりあげてみました。
 ――花見の候、なにかの事情で家に帰れなくなったので、ある人に一夜の宿を頼んだが、つれなく断られた。そこで、桜の花の下で野宿をする羽目になった。はじめはその人のつれなさを恨みもしたが、朧月夜の花の下で一夜を寝るということは、なかなか風雅でいいものだった。思いもかけず、こういう体験ができたのも、あの人が宿を貸してくれなかったおかげである。つれなさと思ったものが、結果的には情であったのだ。――
 というような意味でしょう。こういう歌を詠めるということは、蓮月尼の心の広さ、考えかたの深さを示しています。ふつうの人なら、宿かさぬ人のつれなさを恨むだけで、「花の下臥」を楽しむ風流の心とてなく、野宿のつらさだけを不平に思いつつ、帰ってきたことでしょう。
 万事において、「つらさを情」に転化して受けとることができるなら、それだけでその人は人生の達人、悟りに達した人といえるにちがいありません。つらさをつらいとしか意識できないとき、生きることは苦となり、いたるところで人生の壁にぶつかることになります。
 福と禍は交代するようにくる、とまえに申しました。それはウソではあるまいけれど、もうすこし突っこんで考えてみると、なにが福でなにが禍であるか、人間の小智をもってしては、すぐには判断できないはずです。「人間万事塞翁が馬」の故事もじつは、そこをこそ指摘したものでした。
 失恋は禍である。そう思うのが常識だが、長い眼で、深い視点から眺めると、これがじつは福であった、いいことであったのだ。そう受けとることができる。事業の失敗でもなんでも、すべてそうです。そういう受けとりかたができると、一見苦であるものが、「恵む情」であったと判断できる。欲にまといつかれた浅知恵をもってしては、そういう判断はできようがありません。
“小我”と“大我”の分岐点なんて、案外こんなところにあるのかもしれない。「つらさを情」にして受けとることのできる人が、心も腹も大きい人、大人物ということなのでしょう。また、そういう心のスイッチの切りかえを、つねに即座に、容易にできることこそが、生きる技術の大きなひとつということでもあります。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]