を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第1章 人生を逆転する鍵

 自然の流れに身をゆだねる

  岩もあり木もありされどさらさらと
     たださらさらと水は流るる


 困難や困苦にたいする心の姿勢は、どうあるのが正しいか?

  憂きことのなおこの上につもれかし
    限りある身の力ためさん
          (熊沢蕃山)


 こういうタンカが切れるなら、すばらしいにちがいありません。苦はイヤだ、苦から逃げたいという、だれしもが陥りやすい心情と逆に、困苦よ、もっと来い、いくらでも来い、と歓迎する。自分のうちにどれくらいの力がひそんでいるか、ためしてみようという。むろん、力及ばずしてブッ倒れる可能性も、覚悟してのことでしょう。
 すばらしい積極的な姿勢で、尊敬せざるをえないのですが、しかし、一般性ということになるとどうであろうか? とくべつ大きな力量をもった人だけが言えることであって、われわれ凡人、ふつう人には、きびしすぎる感じがします。
 また、自然でないという感じもしないではない。苦をいやがるのはペケであるが、苦よ、来い、こい、と力むのも、人間性の自然にそむいているのではないだろうか? 人生の道には「峠たくさん」と、受動的に覚悟することには自然性があるが、峠をことさら求めるのはどんなものか?
 だからこの歌は、蕃山の作としては鑑賞できるが、一般性をもった道歌というものには、なりにくいように思うのです。むろん、世には少数ながら、こういう姿勢こそは自分にドンピシャリである、という人もおられるでしょう。そういう人はそれでよいのですが――。
 苦から逃げるのも、ことさらこれを求めるのも、ともに自然にそむいている。あたえられた難局に、逃げ腰になるのでなく、また、ことさら力むこともなく、淡々とこれにあたって処理してゆく。それが理想であるような気がする。はなはだむずかしいことで、私など、とても実行できていませんが、そうありうるように努力はしているつもりです。
 それで私は「岩もあり……」の歌が、とても好きなのです。愛誦歌のひとつとして、しばしば口のなかで言ってみます。困難に出あうとこれを口ずさんで、心を無にしようと努めるのです。
 自然物でもってすべてを語った象徴的な表現と、淡々と流れるような調べがよいと思います。明治以降の作らしいのですが、くわしいことはわかりません。
 岩があっても木があっても、水は逃げず、また力まず、自然にさらさらと流れるだけで、そして岩をも木をもこえてゆく。その無心、自然さ、強さ……。人もこういうように岩木をこえてゆきたい。そう言えばかの「老子」も、「人は水のようであれ」と教えています。
 
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