を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第1章 人生を逆転する鍵

 よろこびを探す方法

  春は花夏は青葉に秋紅葉
    冬は裸木美しきかな


 苦に敏感な人は、いわゆる“不平屋”でもあるのでしょう。「ああ、苦しい。イヤだ」と思うこと自体、ひとつの不平にほかならないからです。
 不平屋は何につけても、不平のタネばかり探します。そういうふうに心のクセがついている。要するにワガママなのですが、そういう姿勢で万事をみれば、不平のタネは無限にころがっているものです。
 たとえば、四季についてみても、春は眠くて、だるくて、ボンヤリするからイヤだ。夏は暑いからイヤだ。秋はわびしくてセンチになるからイヤ。冬は寒いからキライ。
 こんなふうに見るなら、年がら年じゅう不愉快な季節ということになる。楽しいときは、ひとときたりともありえない。日本を脱出してどの外国に住んだとて、快い季節はありえないでしょう。
 職場についても同じことで、外勤は体をつかうし、人づきあいが多いからイヤだ。内勤は、仕事がじみでウットウシイからイヤだ。不平のタネを探せば、こういうことになりかねない。不平屋には、安住の地がありえないということです。
「春は花……」の歌は、そういう心の姿勢とは逆に、楽しみやよろこびのタネを探す技術の一つの例を、四季おりおりの植物を材にとって教えています。「眼を楽しませてくれるもの」は年じゅう、いつの季節にもある。それだけに心をおいて眺めていれば、常時生活はたのしい。心をその方向にむけることが、生きる知恵であるというのです。
 心にそういうクセが完全についてしまえば、これはもう達人の境地、幸福も悟りも手中にあるわけで、かの道元禅師も、

  春は花夏ほととぎす秋は月
   冬雪さえて涼しかりけり


 と詠んでいます。
 これまた、四季おりおりの美点のみを眺めて楽しむ、生活の知恵を教えた同じ趣旨の歌ですが、ただ「涼しかりけり」はどういうことか? こういう姿勢でいいものだけを見て暮らしたら、「心が涼しい」ということか?
 そう解しうるならよいが、「冬は雪がさえて涼しい」というのであったら、ちょっと首をひねりたくなる。例の「心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」式の、禅に特有の強がり、ある種の気どり、自然性にそむいたムリな悟り、といったものを感じさせるからです。「秋は涼しい、冬は寒い」というのが、自然にして普遍的な感じかたです。「……涼しかりけり」は余分なコトバであって、やはり「冬は裸木美しきかな」のほうが、すなおで、自然でよい。変にひねっていない素朴さにこそ、道歌の良さはあります。道元ほどの人を批判するみたいでナマイキですが、要は道歌の真価を指摘したいためで、他意はありません。
 人間は我がままな生きものだから、不平のタネは容易に、いくらでも探しだすが、よろこび楽しみ、感謝のタネには気がつきにくい。しかし、こちらのほうもまた探せば、無限といってよいほどに見つかるものです。

  気をとめて見ればこそあれ武蔵野の
      千草にまじる花のいろいろ


「見ればこそあれ」は、「見ると(花のいろいろが)ある」ということ。「気をとめて」が大切で、「なに気なく」見るのでは、見えるべきものが見えなくなります。
 武蔵野の原は、なに気なく見たのでは、いろいろな草が茂っているだけだが、気をとめて、すなわち、注意してよく見つめてみると、各種の小さな花が草にまじって、たくさん咲いていることがわかる。これと同じことで、よろこびや感謝のタネという花も、気をとめてよく探したら、いろいろのものがいくらでもあることがわかる。気をつけないでボンヤリ暮らすから、草ホウボウの味気ない暮らしになってしまう。そして、心が不平の方向ばかりに向かうことになります。
 
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