を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第2章 心につもった塵を洗え

 心と姿の本末を転倒するな

  形こそ深山がくれの朽木なれ
     心は花になさばなりなむ

         (兼芸法師)


 古今和歌集に出ている歌で、詞書に「女どもの見て笑ひければよめる」とあります。法師の姿、かっこうがおかしかったので、女たちが笑った。そこで一首を詠み出でた、というわけです。
 ――私は姿こそは、深山の奥にかくれている朽木のように、見るかげもなく醜いものだが、ご婦人がた、そんなにお笑いめさるな。心は花のように美しくしようと思えば、できないことはないでしょうからネ。――
「心は花のように美しいゾ」とはいわず、「花になさばなりなむ」と言ったあたり、自負と謙虚とがほどよく調合され、これがこの歌を、一般性のあるものにしています。「なさばなりなむ」は、だれにでも通用する、心というものの本質であろうからです。
 人はとかく他人を、表面的な姿、形で評価しようとする。たいせつなのは中味である精神面であろうのに、そのほうはよくも見ようとはせず、また読みとる眼力にもとぼしい。自分自身にかんしても、表面的なものだけを飾り、内面の修養ということを怠りがちになる。いつの時代においでも、人とはそういうものであろうけれど、戦後の物質主義、拝金主義の世においてそういう性向はきわまった感があります。
「カッコイイ」というコトバが生まれてから、もうどれぐらいになりますか? 時代相を端的に表現した、うすっぺらな流行語であると言えます。表面の姿だけを、末梢的な感覚で評価する形容詞で、これが広く使われるのに並行して、心の「カッコヨサ」を求める態度は、うすれ消えゆく一方です。

  キセルさえ心のヤニを掃除せず
     ガン首ばかり磨く世の人


 金属性のガン首は、外に出ていて人に見えるし、磨けばすぐにピカピカ光る。だから人は、これを磨くことは怠らない。だが、中のヤニを掃除することは、見えないところだけに、怠りがちになる。真に大切なのは、こちらのほうでこそあろうのに。
 キセルを扱うのと同じように、人は自分自身をも扱っている。そういう人が多い。表面だけを飾り、磨いて、心のヤニを掃除しようとしない。「花になさばなりなむ」心も、これでは花どころではない。きたないヤニがたまる一方です。
 ガン首を磨くことがわるいわけではない。姿、形を整え、リッパにすることも、人としての道、社会人としての礼儀でもあります。だが、それは第一義のことではない。中味(心)が本で、形は末である。その本末を転倒するな。 
 これらの歌は、そういうことを教えているのだと思います。
 同じ趣旨のことをうたったものに、

  ころもこそ素服をまとへむら肝の
     こころの錦あやにかしこし

 言語学者の金田一京助博士の作と聞いています。「むら肝の」は、心にかかる枕詞です。
 水前寺清子の歌に、「ボロは着てても心は錦……」とありましたが、人間いつの世でも同じことを言っている。同じことを言わねばならないのは、その逆の人びとが多いからでしょう。
 そもそも人間が中味(心)よりも表面にとらわれがちになるのは、前者が眼に見えないものであるからでしょう。
 容姿や服装ならば、鏡にうつして見ることができる。だから、一点のシミ、一本のシワにも気がついて、すぐにこれを直すことができる。だが、心は鏡にうつして見ることができません。だから、たとえヤニだらけであっても、気がつかすにすぎてしまいます。

  わが心鏡にうつるものならば
     さこそ醜き姿なるらん


 まあ、うつらないからいいのかもしれません。ハッキリとうつしだされたら、自己嫌悪にたえられないかもしれない。しかし、「わが心鏡にうつるものならば……」と、ときに思ってみることは、修養のために必要なことかと考えられます。
 
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