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第2章 心につもった塵を洗え | ||
人間をうつす鏡の価値 皆人の心のもとはます鏡 磨かばなどか曇りはつべき ます鏡は“ますみの鏡”の略で、漢字をつかえば“真澄鏡”です。一点のよごれもない、完全にすみきった鏡のこと。心の“もと”とは、本来性というほどの意味でしょう。 みどり児のしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき という歌があります。嬰児の心には一点の汚れもなく、神そのもののようである。だが、長じるにつれて、しだいに人間的なさかしら知恵がつき、はじめに持っていた無垢の神性から遠ざかってゆく。これはじつに情ないことだ、と嘆いた歌です。 人間だれでも、さいしょは“ます鏡”のような心を持っていた。大人になってその鏡がよごれてしまうわけですが、これはよごれただけであって、その鏡がなくなってしまったわけではない。だれの身のうちにも、先天的なます鏡は、いまなお潜在しているのである。だから、これを磨くことを怠らないなら、曇りきってしまうことはないはずだ。―― 表題の歌の意味は、そういうようなことでしょう。 人に内在する神性を信じる、楽観的な歌にみえますが、裏をかえせば、「磨かなかったら曇りはててしまうゾ」と警告しているのだから、なかなかにきびしい歌であるとも言えるわけです。 私をはなれてみれば心ほど あかるき鏡世になかりけり 心がくもるのは私心があるからで、私心や私欲を捨ててしまえば、心は元の神性そのものに還る。そのとき、心ほどあかるい鏡はないということになる。まえに申した、「心がよごれていると勘がにぶる」というのも、その曇りによって判断力が狂うからにほかなりません。逆にいえば、私心なき人は神にちかい判断ができる。だから、「神明の加護を得る」というような結果になって、いわゆる「運が強い」ということにもなるわけです。 わが心みがきみがきて世のなかの かがみとなりて人に見られよ これはあまりにも高い目標を言っているので、人にすすめるにも、自戒とするにも、ためらうものを感じさせられます。「そんな大それたこと……」と言いたくなるのです。 しかし、こういう目標をもつことが不自然でない人も、世にはおられるはず。そういう人は、ぜひともこのような気概でもって、修養にはげんでいただきたいものです。 |
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