を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第2章 心につもった塵を洗え

 心につもる塵を洗え

  掃けば散り払えばまたも塵つもる
       人の心も庭の落葉も


 晩秋、落葉の候。竹ボウキで庭をはいてもはいても、すぐに落葉が散ってくる。いくらはいてもキリがない。
 それと同じように、人の心にも、すぐに塵がつもる。はらうあとからまたつもる。だから、心の塵は気をつけて、つねにはらう努力を怠ってはならない。
 庭の落葉にことよせて、心の掃除がたいへんであることを語っています。

  気もつかず目にも見えねどいつとなく
      埃のたまる袂(たもと)なりけり


 私は和服がすきで、家にいるときはたいていこれを着ているし、近所への散歩や買いものなども、そのままの姿で出かけることが少なくない。それで、この歌のココロがよくわかるつもりです。
 たしかに和服のたもと、とくにその隅には、埃が「いつとなく」たまるものです。埃がかたくかたまっていることさえあります。
 むろんこの歌は、和服そのものについて語っているのではない。和服のたもとにかこつけて、「人の心もそのとおりであるゾ。お気をつけめされよ」と説いている。「いつとなく」の五字に重みがあり、それが、埃をはらうつねづねの努力を暗に求めています。
 四章に出てくる「欲ふかき人の心と降る雪は……」の歌も、要はおなじ趣旨のことを説いて
いるのでしょう。
 人の心につもる塵、埃とはなにか?
 むろん、もとの“ます鏡”を曇らせるもの、すべてを言います。各種の欲、我、エゴの心、煩悩と迷いの想念……等。
 心にもクセがあり。そのクセはなかなかに治しにくいものです。よほどできた人でないかぎり、心には、埃がたまるクセがついている。まず、たいていの人はそうです。だから、埃で心が曇りきらないよう、もとの“ます鏡”にすこしでも近づくよう、日々の努力が必要になるわけです。

  日々につもる心のちりあくた
    洗ひ流して我を助けよ
              (二宮尊徳)


 尊徳翁の歌がたびたび出てくることに、不自然をおぼえられる人がいるかもしれない。しかし、なんといっても翁は、個人的な道歌の作者としては第一人者であるし、日本の思想史上の巨峰でもあるので、どうしてもこういうことになってきます。私はべつに翁に心酔する者ではなく、尊敬する先人はほかにもたくさんいますが、この本のテーマが道歌にあるので、自然に翁をかつがざるをえなくなるのです。どうか、ドウカ? と思わないでください。
 さて、翁のこの歌を、高弟の福住正兄に解説してもらいましょう。

――それ、心はもと天より受けえたるわが霊魂の活用するものなれば、清くして濁りなく、道心と隔てなきものなれども、この身体に欲あり、これを人欲といふ。この人欲にふれて発動するときは人欲の私となる。その私のちりあくたのために覆はれて道を失ふなれど、行住坐臥心にかけて、ちりあくたの喜怒哀楽妬憎等を洗ひ流して、わが身を助けよとの教へなり。欲はわが身の敵なることを、まずよく思ふべし。――

「我を助けよ」の我とは、“真我”というほどの意味のようです。つまり、もとの“ます鏡”とおなじ意味。
 心にたまったちりあくたのために、自我の神性、本来性が、曇り、埋もれて苦しんでいる。だからそのちりあくたを洗い流して、真我を助けだせ。そうでないと、この自分というものは救われんゾ。
 そういうふうに叱咤しておられるのだと思います。
 親は我が子の心に“ちりあくた″がつかないよう、極力気をつけ導いてやらねばならない。それがまことのしつけ、家庭教育というものでしょう。
 
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