を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第2章 心につもった塵を洗え

 大海に出てわかる小さい自分

  実るほど頭を垂るる稲の穂と
     へりくだる人の心ゆかしき


 序章で道句の例として。

   実るほど頭を垂るる稲穂かな

 をあげ、三十一文字の道歌よりも十七文字の道句のほうが、短くて歯切れがよいだけ印象が強い、という意味のことを申しました。
 この句と前の歌とをくらべたら、そのことがよくわかりましょう。この句において、言わんとするところは言いつくされており、歌のほうの下の句は、なくもがなの説明という形になっています。
 しかし、この句を知っていてこれとくらべるからそういう印象になるので、この句がもしなかったとしたら、この歌は道歌として、じゅうぶん佳作の部に入るものでしょう。
 意味は説明するまでもありますまい。中味(徳や力量)のゆたかな人ほど謙虚なものだ(中味の乏しい人ほど自慢をしたがる)ということで、稲の穂を象徴として、その趣旨を表現したものです。

  下がるほど人の見上ぐる藤の花

 という句もある。謙虚な人ほど、花がゆたかで、ひとから尊敬されるということで、これもなかなか味のある句です。
 人間はとかく我のつよい生きもので、「オレが、オレが……」という気持ちにとりつかれやすい。優越欲という妙な欲から、多くの人は脱しえていないものです。その欲がすこしでも満たされると、テングになって、自慢を口にしたがる。このちっぽけな“オレ”を誇るのです。
「井のなかのカワズ、大海を知らず」というとおり、こういう人は例外なく、せまい世界で自他をくらべ、ちょっとばかり自分がまさっているというので、テングになっているにすぎない。ほんとうに力量のある人は、広大な世界を知っているので、とても高慢にはなれない。謙虚たらざるをえないのです。
 私が大学生のとき、将棋仲間で私にかなうものはいなかった。負けるということが、ほとんどありません。旧制の高校時代、いちばん強かった先生よりも強かった、という過去もある。
「オレの強さはどれぐらいなんだろう? すくなくも初段はあるだろう」とみずから思い、仲間もそのように言う。自分の強さ(!)をハッキリ知りたくなりました。
 五段のプロ棋士が経営しているある道場を訪れました。「この人とやってみなさい」と先生が、ある青年を紹介してくれました。二番指して二番とも、コテンパンの完敗です。「このオレにこのように勝つとは、なんという強い人だ! 何段の人だろう?」と思って聞いてみると、なんとその人は、その道場の常連ではいちばん弱く、十六級ということでした。つまり私は、初段どころか、初段の人に飛車と角を引いてもらってもなお勝てない。その程度の力だったのです。「井のなかのカワズ」の見本のようなものでした。
 これで眼がさめ、テングの鼻はペシャンコに折れて、はじめてへりくだった心で、将棋という深い世界を探求するようになったのでした。
 たかが趣味の世界のことがらではあるけれど、私にとってはいまだに忘れえない、強烈な体験でした。一事が万事で、何ごとにも通じる理が、この体験のなかにふくまれていると思ったからです。

  自分ほど賢いものはなかろうと
      自分できめるバカの親玉


「賢い」を強い、「バカ」をヘボと言いかえたら、そのころの私を表現した歌になります。
 中国の古典「荘子」にも、「道ヲ聞クコト百ニシテ、モッテ己レニ若クモノナシト為ス」(わずかばかりのことを聞き知っただけで、自分より偉いものはないように自惚れる)とある。人間がおちいりやすい、普遍的な陥穽(かんせい)なんでしょうか?
 総じて、自慢をする人の現実は、その自慢とは反対である、と思ってもよいのではないか?そう考えたら自慢なんて、こわくてとてもできないことになります。
「オレは偉い」と思っている人は、そのじつ、ちっとも偉くないのである。「オレは才能がある」と思っている人の才能は、かならずや大したものではない。「オレは感謝の心で生きている」と思う人は、天からみたら、なかなかの不平屋さんである。自己評価というものは、まことにむずかしく、まったくアテにならないものです。

  いばりたい気がするときは母親の
      胎内にいたころを思えよ


 自分の原初の姿を思ってみよ、という。その姿において、万人はみなひとしい。優も劣もありはせぬ。ケチくさい、相対的な人間価値観にふりまわされる愚を、さとした歌といえます。
 自己評価の錯覚は、高慢のばあいにのみ生じるのではない。
 反対の劣等感のばあいについても、同じことが言えます。劣等感にとりつかれている人は、けっして、自分で思っているほど劣等ではない。これも真実です。
 劣等感も一種の高慢である、ともいえます。なぜなら、それは自分を裁く行為であるからです。神が創りたもうたこの自分を裁くなんて、不遜でなくて何でしょうか。
 劣等感は、「自分にたいする不平」でもあります。感謝がたりないのです。また、ナルシシズム(自分恋愛)の裏返しでもある。すなわち、これも我執なのです。
 一見、謙虚のようで、じつは正反対。だから、高慢と本質を同じくするのです。
 両者に共通するものは、煩悩の雲から生まれた心情であるということ。いずれも小我へのとらわれです。やはりどうしても、神性の月、真我の発掘ということが、課題となってきます。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]