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第2章 心につもった塵を洗え | ||
“角”がない心も考えよう 世の人の心をまるくマン丸に どこもかしこもまるくマン丸 「世の人すべてが、まるい心の持ち主になってほしいものだ」という、願望をうたった歌なのでしょう。いつの時代の作かわかりませんが、いまのような日本において、声たからかにうたわれてほしい歌です。 「心がまるい」の反対は、「心にカドがある」あるいは「トゲがある」。そのカドやトゲをつくりだすものは、我であり、欲であり、エゴイズムです。そういうカドがぶつかりあうので、世に争いが絶えぬことになります。小は2人のケンカ口論から、大は政争、戦争にいたるまで、そのもとは例外なく、人間の心のカドやトゲにある。それは醜い、かなしいことであるから、なんとか世の人すべての心を丸くして、争いを地上からなくしたいものだ、という。 お説ゴモットモですが、またこれは理想であって、いっぺんにそこまでゆくことはできない。現実の世の人間は、十人のうち九人はトゲやカドの持ち主である。そういう世を渡ってゆくためにはまた、それなりの知恵もいる。 丸くとも一角あれや人ごころ あまり丸きは転びやすきに 「一角あれ」とは、「丸いだけではいけない。一本シンが通っていなくては……」というほどの意味でしょうか? 丸いだけでは、カドのある人たちによって、いいように転がされてしまう。“善人”ではあるべきだが、“お人よし”ではいかん。一面に、転がらないですむような平面もなくてはいけない、という。男において、とくに必要なことがらでしょうか。 世のなかは茨からたち鬼あざみ 心して咲け姫百合の花 トゲのない人がトゲだらけの世を生きるには、それなりの警戒や心がまえがいる。情ないけど、そういう警告も必要であるのが、世のなかの現実というものです。 自分が“鬼あざみ″になる必要はない。しかし、世間知らずの甘い“姫百合”であっては、社会的な敗者になってしまう可能性があります。 ある青年、“マン丸”な性格のうえに、行動力が大いにある。だから、セールスの職場においてめざましい活躍をしていたのですが、ある機縁からある宗教に接した。丸くて疑うことを知らぬから、すぐに信じこむ。それからたてつづけに、宗教ではないが、現代の二つばかりの思想に接し、これにも警戒なしにのめりこんでいった。この三つのものは言うことがちがいますから、自分というものが支離滅裂になり、一時は狂人みたいになってしまった。いい意味での“ひとかど”がないと、人に転がされるだけの運命に陥るという実例です。 |
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