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第2章 心につもった塵を洗え | ||
内に恥じても、外には恥じない 我と我が心に恥ずるものならば 恥ずべきことのなき身とぞなる (中江藤樹) 中江藤樹は江戸時代前期の懦学者で、日本における陽明学の祖ともいわれる人です。伊予(愛媛)の加藤候につかえたのち、郷里の近江(滋賀)にかえって私塾を開き、教育に専念しました。世人からその徳を仰がれ、近江聖人と呼ばれたことは有名です。 藤樹にはこの歌と対をなすというべき、 外に恥じ外につつしむ人はただ 影をおそれて走るなりけり という作があります。この二つを並べてみると、かれの言わんとするところが、おおよそわかると思います。 「ユダヤ人は“罪”の意識、日本人は“恥”の意識のもっとも敏感な民族である」と、ある本で読んだことがあります。この判断の正否はさておき、日本人ならずとも、人間みな“恥”の感覚なくして生きることは、不可能といえます。「恥を知れ」「この恥知らずメが……」など、よくつかわれる言葉です。 問題は「誰(何)にたいして恥じるのか?」ということ。恥の感覚にも次元の高低があると言えましょう。 藤樹の歌をかりれば、「内に恥じるか、外に恥じるか」ということ。かれはむろん、「内に恥じよ、外に恥じるな」と教えている。“外”は他人、あるいは、いわゆる世間のこと。“内”は、自分自身の良心ということです。 良心とは、自分ひとりの所有物なのではなくて、自分の奥に内在する神性の声、普遍的な宇宙理性ともいうべきものです。つまり、真我ということで、それを相手に、それに恥じることなきように心がけて生きよ。それにさえ恥じないなら、人の批評などはどうでもよろしい。対世間的な恥の意識など、持つ必要はない。藤樹の教えるところは、そういうことなのでしょう。 世のなかの人は知らねど科(とが)あらば わが身を責むるわが心かな 良心にも大小、深浅のちがいがある。おそろしいのは、煩悩によってそれが曇ってしまうこと。いわゆる“良心のマヒ”です。これが普遍的になると、国も人類もアブナイ、ということになりましょう。 平野国臣、獄中の作。 とらはれの身となりながら天地に 恥じぬ心ぞ頼みなりける 心の磨かれた人においては、「良心に恥じぬ」と「天地に恥じぬ」はひとつことです。投獄されるということは、世間的には(外にたいしては)恥ずかしい、不名誉なこと。だが、内に神性の月が輝き、それへの信あるゆえに、低次元の恥感覚にとらわれることがない。「影をおそれて走る」ことがなくてすむのです。 「忠臣蔵」の大石良雄が吉良方のスパイをあざむくために、京の祇園の料亭に入りぴたり、飲めや歌えのバカさわぎで日をすごしたことは、有名な話です。 ある血気さかんな九州の武士某が、この乱痴気さわぎのなかへ乗りこんできた。そして、「主君をああいう形で亡くしながら、仇を討とうともせぬ。犬ザムライめ……」などと大石を面罵する。はては、焼魚かなにかを足の指ではさみ、「犬ならこれが食えるだろう。食え」と突きだす。こんな侮辱もないわけで、「外に恥じる」人なら、刀のツカに手をかけるところでしょうが、内に恥じないものをもっていた大石、ハイハイといってそれを食べてしまいました。武士は呆れはて、さらに罵倒をあびせて、足音荒く出ていったという。 四十七士の討入りと全員切腹の報が、この武士の耳にも入った。ガク然と驚き、身辺を整理して上京、泉岳寺の大石の墓の前で非礼をわびたのち、みごとに切腹して果てたということです。 当の相手はもういないのだから、そこまでする必要はなさそうにみえるが、この武士の良心が許さなかったのでしょう。かれは内(天地)に恥じて、その責任をとったのでした。 |
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あめつちのなかに我あり一人あり
中江藤樹の語録には、「天地の間、おのれひとり生きてあると思ふべし」という言葉がある。表題の句は、大衆作家として鳴らした(故)吉川英治氏の作であるが、期せずして同一のことを言っているのがおもしろい。 「ひとり」とはどういう意味であろうか? 重大な三文字であって、あるいは人生問題のカナメが、このへんのところにあるのかもしれない。 「人間はしょせん孤独なのだ」という悟りであろうか? それもないではあるまいが、しかし、とてもそんな小さな意味ではなさそうである。「独立自尊」をたたえる意味もむろんあろうが、しかし漢字のこの四文字、とても「ひとり」の深さ、大きさには及ばない。 思いだされるのは西郷隆盛の、「人を相手にせず、天を相手にせよ」という遺訓である。案外このへんが、この句のココロにいちばん近いのではないであろうか? 自分一人と大天地とが一対一で対面しあう。そういう心で生きる。そのときはじめて真の自己確立をなしうる。そういう含みに受けとることかできるような気がする。 ちなみに吉川英治氏は、じつに謙虚で徳の高い人であったそうである。とくに夫婦間の敬愛には、頭のさがるものがあったと、氏と親交のあった人の言である。 |
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