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第2章 心につもった塵を洗え | ||
この世の至楽を得る おりおりに遊ぶ暇はある人の 暇なしとて書読まぬかな “心の糧”という言葉があります。 糧とはもともと食糧の意味。食物は栄養をあたえるもの。だから心の糧とは、心に栄養をあたえるもの、という意味。そういう意味で、「良書は心の糧」ということが、古くから言われてきました。 本居宣長には心の糧としての読書をすすめた一連の連作があり、これはそのなかの一首です。 宣長はいうまでもなく、江戸後期の国学者です。伊勢(三重県)松阪の商家に生まれ、京都で医学をまなび、郷里で開業医としてはたらくかたわら、国学の研究に没頭、多くの弟子を養成しました。とくに「古事記伝」は、ほとんど全生涯をついやした大労作で、その復古主義、国粋思想は、幕末維新の王政復古運動の源流となります。 さて、表題の歌――意味は容易にわかりましょう。現代にあてはめていえば、テレビに呆けるヒマはある、パチンコも大いにやる、競馬にもときどき出かける。そういう人に、「たまには本でも読んだらどうだ」と忠告すると、「イヤー、ヒマがないんでネー」と頭をかく。宣長の時代にもそうであったのかと、ほほえましくもなります。 本の虫、本の奴隷になることはむろんよくない。また、いかがわしい本ばかりに親しむのでは、心の糧どころか、心は毒され、汚れるばかりです。 だが、一般的にいって、この活字文化の時代には、少なくもあるていどの読書をしなければ、心を清めることも深めることもできないし、世についてゆくこともできません。良き書物は、心を磨くためのひとつの必須の道具であると言えます。ときには古典をひもとくことが、とりわけて大切であると、強調もしなくてはなりますまい。 宣長の連作のなかから、さらに幾首かを拾ってみます。 書読めば大和もろこし昔いま よろずのことを知るぞうれしき 書読めば昔の人はなかりけり みな今もあるわが友にして 食ふものは満ちても消ゆる腹のなかに 長く残るは読める書なり 書読までなに徒然になぐさまむ 春雨のころ秋の長き夜 世のわざの濁りに染める人ごころ 書読むほどは清く澄みけり 読書にはどういう功徳があるか? 宣長より百年早く生まれた、貝原益軒の「楽訓」から引用してみましょう。 ――およそ読書の楽しみは、色を好まずして悦びふかく、山林に入らずして心しずかに、富貴ならずして心ゆたけし。このゆえに人間の楽しみ、これに代ふるものなし。―― ――およそのこと、友を得ざれば成しうべからず。ただ読書の一事は、友なくて独り楽しむべし。一室の内にいて天下四海の内を見、天地万物の理を知る。数千年ののちにありて、数千年の前を見る。今の世にありて古の人に対す。わが身愚かにして聖賢に交はる。これみな読書の楽しみなり。およそよろずの事業のうち、読書の益にしくことなし。しかるに世の人これを好まず。その不幸甚だし。これを好む人は、天下の至楽を得たりと言ふべし。―― 宣長とおなじように、読書を好む人がすくないことを嘆き、「その不幸甚だし」ときめつけています。 三十代半ばのある社長さん。この年で三つの会社と、二百人をこえる従業員を持っている。東奔西走の多忙きわまる毎日ですが、フシギなことにこの人が、じつに本をよく読んでいる。 聞けばもっぱら、“車中”を読書の時間にあてているとのことでした。飛行機のなか、新幹線のなか、自家用車のなか――。そこで好きな読書にふけるという。「暇なしとて書読まぬ」人は、もって手本としてよろしいかと思います。 |
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