を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第3章 自分を生かす道を求めよ

 身をまもるは保身ではない

  思いみればこの身のほかに道はなし
     身をまもるこそ道を知るなれ


「身をまもる」の一語、なかなか意味が深いと思います。たんなる保身というていどの意味であろうはずはない。「まもる」に漢字をあてると内容が限定されてしまうので、あえて平仮名で記しました(言葉のふくみの広いのが、日本語のひとつの大きな特色です)。
 江戸時代の話ですが、若い女流詩人として、才媛として評判の女がいた。ある日、高名な儒者をたずね、「道とは何ぞや……」と、トウトウと弁舌をふるった。だまって聞いていた儒者先生、言いたいだけ言わせたあと、おもむろに口をひらいて、「あなたは女であるから、たとえば家のなかの掃除をキチンとするとか、針箱のなかを整頓するとか、そういうことこそが道をおこなうことであると思うが……」。くだんの女史、マッ赤になってそこそこに退散したということです。
 道、道……といくら探し、あるいは論じてみたとて、この自分自身の外にそれがあろうはずはない。それをわが心身に体現できてはじめて、真に道を知ると言えるのである。歌の意味は、そんなところでしょうか。
 ゆえに「身をまもる」とは、肉体と心の双方をふくめて、「この自分を全うする」というほどの意味と考えられます。そこまでゆく努力をしないなら、人の道はそれこそ、“画餅”にとどまることになるでしょう。
「身をまもる」の第一歩、その基礎工事は、自分の肉体を健康にたもつことです。わが肉体のあつかいかたにも、倫理というものがある。この公害とストレスの時代において、完全なる健康をたもつことは夢物語かもしれないが、周囲の人に迷惑をかけないていどの健康なら、自覚と努力とによって、だれでも身につけうると考えられます。いや、「身につけなくてはならない」のです。それが“道″です。
 陽明学の祖、王陽明は、「身を養うと徳を養うとはただこれ一事」と言っている。意訳をすれば、「不健康であることは徳が低いこと」という次第。しかし、健康は自己完成の要件なのですから、きびしすぎることを言っているわけではないでしょう。
 英国の哲学者ハーバート・スペンサーも、「生理的道徳というべきものがあることを知る人はすくない」と言っている。わが福沢諭吉翁は、「天寿を全うするは人の義務なり」と言っています。「長生きしたい」ではなくて、「長生きしなくてはいけない。それが、自分を創ったもの(神)への務めだ」というのです。
「誠の道ぞ人のゆく道」という、その誠は、まずわが体に向けられなくてはならないようです。日ごろ不節制をして、病気になると医者に頼る、クスリに頼る。とても「身をまもる」姿勢ではありえません。
「身をまもる」の第二は、経済的な破綻をきたさないことでしょう。借金で首がまわらなくなるというようなことは、ぜったいにあってはならない。誠の道をさえ歩んでいれば、そういうことは生じえないはず、と思うのだが、どうでしょう?
 金もちになる必要はない。西郷サンがいったように、「児孫ニ美田ヲ残ス」必要もない。生きているあいだ、衣食が足りればそれでよい。要は人に迷惑をかけぬことで、それさえ実行できるなら「身をまもる」の最小限ははたしていることになりましょう。
 とはいっても、こういうようなことは、失敗してみてはじめて真に悟りうるので、だからいま病気である人や、経済的に窮している人は、これを天があたえたもうたアリガタイ(有ること難い)機会だと思い、これからの「身をまもる」誠の道への、跳躍台にしていただきたいものです。
 私自身、この二、三年来、「身をまもる」ことのむずかしさを痛感しております。というのは、人並み以上に頑健のつもりだった体のあちこちに、還暦のころからいろいろと故障が生じてきて、それらが簡単には治ってくれないからです。
「トシなんだから仕方ないさ」で片づけたくはない。トシといっても八十をこえたわけじゃないし、また「身をまもる」義務は、年齢にはかかわらぬものであるはずだからで、ゆえに、「道」とはむずかしいものだ! と思い知らされつつ、肉体の再建に努めている次第なのです。
 
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