を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第3章 自分を生かす道を求めよ

 どこに“まっすぐ”の道があるか

  まっすぐにゆけば迷わぬ人の道
     横すじかいにゆきて尋ぬる


 “すじかい”(筋交)は斜めということ。人の道というものは、まっすぐにゆきさえすれば迷うことなどないはずなのに、横着をして、横道や斜めの道に入ってゆくから迷ってしまう。そして、タバコ屋とか交番とかで、道を聞かなくてはならないことになる。
「ここは何番地でしょうか?」とか、「何町はどこですか?」などと聞くうちはよろしい。「私はどこへ行ったらいいんでしょう?」と聞く人がいる。マンガみたいですが、しかし、世の“人生相談”なるものを読んでみると、こういう質問をしている人が多いようです。
 1章に紹介した銀行員君にまた登場してもらいますと――イヤでもなんでも、課せられた外勤の仕事をやりぬく。これが「まっすぐにゆく」ことであった。それをしたら迷うことはなかったであろうに、自分の身勝手から内勤という横道に入った。それで、ますます迷路に入って、どうしていいかわからなくなってしまったというわけです。

  習わじな沢辺の蟹(かに)の横にのみ
   行かばゆかるる道はありとも


 という歌もある。ゆこうと思えばゆける横道があったとしても、蟹の横歩きのマネはしないで、まっすぐゆきましょう、ということ。
 まっすぐゆくことが正道、横道にそれることが邪道。これらの歌はそういうふうに説明しています。歌の意味はよくわかるのですが、問題は、何が正道で、何が邪道であるのかということ。その判別が容易ではない。だから、

  ともすればあらぬ方へとふみ迷う
      教えがたきは人の道なり


 という歌が生まれることにもなる。何が正道であるかは、人に教えられてわかるばあいもありうるけれど、つねにそうとばかりはゆかず、自分の足でトコトンまで迷って、袋小路に追いつめられて、窮したあげくゆくべき道のありかに気がつく、というケースもまた、大いにありえます。いわゆる人生の岐路に立ったばあいは、まずたいていこんなもの。「努力するかぎり人は迷うものだ」とゲーテが言っているとおりで、迷って横道に入るから、正道の所在をみずから悟ることができる。失敗するから成功がありうる。「負けておぼえる相撲かな」です。だから、ワザと横道に入ることはよろしくないけれど、まっすぐのつもりで横へ入っていってしまったということなら、大いにあってよろしい。大いに迷うべし、ということでしょう。
 かの銀行員君にしたって、内勤こそが自分の適性を生かす道、ゆえに正道なり、と信じて入っていったわけでしょう? ゆきづまって初めてその横道なるを悟ったわけだから、これはこれでかけがえのない、貴重な体験であったことになります。正道にたどりつくまでのプロセスとしての、横道であったわけです。
 とるべき道の正否については、個人による相違というものがまたありえます。
 職業という道について言えば、ひとつの企業に入社したら、定年までやりぬくのが正道ということに、世間の通念ではなっている。だが、力量や性格によっては、途中で“脱サラ”を敢行するのが正道、まっすぐな道である。そういう人も少なくない。人によって道がちがうのです。わが正道は人それぞれ、みずから発見しなくてはなりません。その発見をなさしめるものは、磨かれた真我の月なのでしょう。
 現代のような混迷の世では、正道の発見はますますむずかしくなる一方です。世の中全体が正道を見失っているような感じさえする。日本という国がそうだし、人類全体がそんな傾向にある。だから、いくつの年になっても。

  いま時分こんな世界のマンなかで
     まごつこうとは予期もせなんだ


 と嘆きたいことに出くわす。
 だが、大人はまだよろしい。かわいそうなのは青少年たちです。私たち大人が「まっすぐにゆく」手本を示してやらないと、かれらは若いうちから「まごつく」ことになりかねない。たとえば“教育熱心”な母親たちが、どれだけその子たちを「まごつかせ」ていることか!
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]