を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第3章 自分を生かす道を求めよ

 横文字と横道の関係

  世のために蟹なす文字を学ぶとも
     横走りする人と言わるな


 あきらかにこれは、明治に入ってからつくられた歌です。そして、現代においてこそ、大いに考えさせられる歌だと思います。
 日本語とちがって、欧米の言語はヨコに書く。それでこれを“横文字”というのはふつうの言いかたですが、“蟹なす文字”はおもしろい表現です。ペンの運びが、カニの横バイを連想させるからでしょう。

―英語、フランス語など、アチラの言語をまなぶこと自体は、世につくす手だてとなりうるのだからよい。だが、思想や行動までがアチラ式になってしまってはいけない。気をつけなさい。――

 そんなふうに言っているのでしょう。“横”はここでは、意味が限定されていると思います。日本人のくせに西洋人のマネをする。それを、正道ならぬ横道といったわけです。
 明治維新以来の、西欧の文物や思想に対する崇拝とその模倣ぶりには、いささか度をすぎるものがありました。そして、この傾向は、史上初めての敗戦以後、きわまった感があります。
 諸外国の文化を吸収すること自体は、大いにけっこうなことである。そして、その才能において、日本人が世界に冠たる民族であること、疑いはありません。だが、それが民族を、精神的な自己喪失にみちびくとしたら、大いに警戒しなくてはなりません。
「まなぶ」と「まねる」の二語は、語源を一にしていて、しかも意味は大いにちがいます。一には主体性があるが、他にはそれがない。明治の初めのころの指導者は、西欧から学ぼうと努力した。それがいつのまにか、「まねる」 一方になってきた。それと並行して、日本の伝統的、土着的な良きものが、見くびられるようになってきたのでした。
 私の事務所のすぐ近くに、浄土真宗の古刹があります。門の前に掲示板があって、そこに、「見てござる」「仏のいのち」「生かされている」といったような、ごく短い、内容の深い言葉が一句だけ贈り出されて、ときどきとり換えられます。
 ひと月ほど前でしたか、突然、調子の変わった文句が掲示されて、腰を抜かしそうになりました。「私は、私でないことにおいて、私である」(サルトル)というのです。
 ジャン・ポール・サルトル(フランス)を尊敬するのはいい。かれから学ぶのもけっこう。しかし、仏教のお寺がなぜ西欧の思想家の、よりによって難解な言葉を、麗々しく掲げる必要があるのか? お寺にふさわしい「いい言葉」は、他にいくらでもあろうのに。
「こういうのも“横走り”なのであろうな。目ざわりで困る」と思いつつ、毎日往き帰りに眺めるのですが、いまだに撤去してくれません。
 
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