を鍛える本
人生に勇気、心に力がみなぎる
櫻木健古・著 三笠書房 
第3章 自分を生かす道を求めよ

 他人の欠点は自分の欠点

  よしあしは向こうにあらで我にあり
     心直らば影は曲がらじ


「よしあし」は善悪、「向こう」は相手、他人という意味です。
 同じような趣旨の歌を、二、三並べてみましょう。

  我が善きに人の悪しきがあるものか
     人の悪しきは我が悪しきなり

  愚かなる大ほどおのが非を知らず
      他人を悪く思うなりけり


 前記、荒木田守武の「世の中百首」には、つぎの歌があります。

  世のなかは人をおかしと思ふなよ
    人はこなたやおかしかるらむ


「おかし」は、コッケイという意味もあろうが、このばあいは、「まちがっている」という批判の意味にとるのが自然でしょう。
 こう並べてみると、これら四首が言わんとしている共通の主張が、なんとなく感じとられるでしょう。「人の、欠点をみるな、人のアラ探しをするな。それよりも、自分はどうか? と顧みて、わが心の姿を正せ」という意味だと思います。
 人間だれでもそうですが、他人のアラはじつによく見える。自分のはサッパリ見えない。肉体とちがって精神面は、鏡に映すことができないからでしょうか?
 これに加えて、自分の欠点は認めたくないという我がまた、たいていの人にはあります。そこでどうしても、他人には辛く、自分には甘いということになる。
 人の世の人間関係がむずかしいことの一半の因は、多くの人がこういう自己中心の見かたに立つことにあるのではないか? 自分は欠点だらけのくせに、神のような姿勢をとって、他人の非だけをみて裁く。人と人の仲がトゲトゲしくならなかったら、むしろそのほうがフシギです。
 人間同士はたがいに鏡のようなものです。相手のなかに自分を見ている。だから、ある人の欠点やマチガイを見て、それが気になったり、苦になったり、咎めたくなる、腹が立つ、ケシカランと思う――というときにはまず間違いなく――トンデモナイ! と言いたいでしょうが――それと同一の、あるいは同質の非が、自分にもあるのです。
 自分にそういう非がないときには、他人の非が見えてもそれが気にならない。裁く心が生じないのです。そして、そういう人のみが他人の非にたいして、愛をもっての効ある忠告をなしうるのだと思います。
 
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