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第1章 美しい自然と街と村 | ||
世界一を誇った江戸の上下水道も 明治初期には汚水で使用不能に! オランダの土木技士を嘆かせた日本の水道 現在の日本は、世界有数の水道先進国であるが、近代以前は違っていた。 明治初期、治水工事を担当する政府のお雇い外国人として来日したリチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリス/土木技士)は、日本の町並みを見て、「家庭からの排水は、普通近くの汚水溜に流れ込み、汚水が浸透するので地下水も汚染している」と嘆いている(『お雇い外国人が見た近代日本』)。 しかし、世界一の大都会だった江戸は、上水道がかなり発達していたのだ。 江戸を流れる川はもともときれいで、飲用水として利用しても害はなかった。1590(天正18)年、江戸城を築城する際には、徳川家康が神田川から水を引き入れる小石川水道を建設。ついで1629(寛永6)年には井の頭池、善福寺池、妙正寺池などを水源とする神田上水が、さらに1653(承応2)年には多摩川から水を引き入れる全長43キロメートルの玉川上水が完成した。 また、江戸の地下には「木樋(もくひ)」と呼ばれる配水管がめぐらされ、各町に設置された井戸(湧水の井戸ではない)まで水を運んだ。この上水システムにより、江戸の約六割の人々が水道を利用することができたといわれている。 維新後に西洋化が進むと汚水の害が…… 下水はといえば、当時の人々はし尿をすべて肥料にしていたため、わずかな生活水を流す溝程度のものさえあれば十分だった。し尿をそのまま放流し、川が汚水で汚れていた西洋諸国とは大違いだ。 しかし明治維新後、西洋化が進むと、汚水が放流されはじめ、飲料水として使用できないどころか、衛生状態はどんどん悪化してしまう。ブラントンが先のように嘆くのも、無理なからぬことだったのである。 ようやくヨーロッパ式の下水道が建設されたのは、1884(明治17)年のこと。その後、日本は水道設備の整備を進め、再び世界有数の水道先進国となった。 |
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