[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第1章 美しい自然と街と村

 雨の日は「ぬかるみ」やになる道路だが、
 その機能や手入れに高評価も


 道路網は整備されたが、未舗装ばかり……

 江戸時代、徳川幕府は陸上交通の整備を進めた。
 まず江戸・大坂・京都の三都を中心に、各地の城下町をつなぐ街道の整備に取りかかり、東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の五街道を完成させる。これにより、江戸を起点とする幹線道路網が完成した。さらに、脇街道と呼ばれる主要道路も全国にはりめぐらし、要所に宿駅を設けた。
 こうして全国的な交通網が形成されていったわけだが、江戸時代の道路は決して立派なものとはいえなかった。明治初頭に来日したブラントンが、「乾いた堅い道路など、昔の日本では考えも及ばなかった」と記しているように(『お雇い外国人が見た近代日本』)、ほとんどの道路は石などで舗装されていなかったのである。
 江戸で最も人通りが多く、にぎやかだった日本橋と京橋の間の通り(現在の中央通り)でさえ、土に砂利を入れて固めただけ。より狭い道では、砂利さえ入れなかった。雨の日などは街中でもひどい泥のぬかるみとなったため、雨天用に下駄を高くした雨下駄や足駄(あしだ)をはかなければならなかった。
 イギリスのロンドンなどでは、18世紀にはすでに道路に石畳が敷き詰められていたというから、ブラントンは江戸の悪路にさぞかし辟易(へきえき)したことだろう。

 涼を求めて、あえて道を石畳にしなかった?

 日本の道が舗装されていなかったのは、舗装技術がなかったからではない。五街道の一部に石畳の舗装がされていたり、神社仏閣の参道が石畳になっていることが多いことから考えると、日本人も石で舗装する技術はもっていた。
 ではなぜ、道路を石畳で舗装しなかったのか。その理由について、江戸文化研究家の石川英輔氏は著書『大江戸えころじー事情』(講談社)のなかで、幕府も住民も、そもそも道路を舗装する意思がなかったのではないかと推測している。石で固めた舗装道路より、泥道のほうが夏は涼しくすごしやすい。当時の人々はそのことを経験的に知っており、あえて道を舗装しなかったのではないかと分析している。

 左側通行が定着していた

 一方で、日本の道路事情に好意的な意見を述べている外国人もいる。
 18世紀後半に来日し、ケンペル、シーボルトと並んで「出島の三学者」と謳われたカール・ペーター・ツユンベリー(スウェーデン/医師・植物学者)は、「この国の道路は1年中良好な状態にあり、広く、かつ排水用の溝を備えている。(略)道をだいなしにする車輪の乗り物が無いので、道路は大変良好な状態で、より長期間保たれる」と非常に高く評価しているのである(『江戸参府随行記』)。
 さらにツユンベリーは、日本人が道路の手入れを怠っていない点にも注目し、
「道に砂がまかれているだけでなく、旅人の到着前には箒(ほうき)で掃いて、すべての汚物や馬糞を念入りに取り払い、そして埃に悩まされる暑い時期には、水を撒き散らす」
 と、その気配りを賞賛している(同書)。
 ツユンベリーの賛辞はまだ続く。
「上がりの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行く。つまり旅人かすれ違うさいに一方がもう一方を不安がらせたり、または害を与えたりすることがないよう、配慮するまでに及んでいるのである」(同書)
 じつは当時、西洋の先進国ではすでに交通事故が頻発しており、多くの子どもや老人が車輪のついた乗り物に轢かれてケガを負わされていた。それに対し、日本では左側通行が徹底され、交通事故が起こることはなかった。そんな日本の交通システムやマナーに、ツユンベリーは感銘を受けたようだ。
 
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