[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第1章 美しい自然と街と村

 「職人技」で丹精された美しい耕地!
 絶賛された農民の勤勉さ


 日本の田畑には雑草が一本もない!

 近代以前の日本の主要産業といえば農業だった。日本の農業が大きく進歩したのは江戸時代のこと。幕府や諸藩が積極的に新田開発を行なった結果、各地の耕地は飛躍的に拡大し、田畑面積は江戸時代当初のこ(4万町歩(1町歩=約1ヘクタール)から、」8世紀はじめには298万町歩にまで激増したのである。
 農民たちは、名主・組頭・百姓代からなる村役人の指導のもと、農作業に従事。米のほか、江戸周辺の農村では野菜や商品作物などを栽培していた。
 日本の農業技術が西洋と比べて大きく発展していたというわけではない。しかし、日本を訪れた外国人の多くは、日本の農業について一様に高く評価している。
 たとえばスウェーデン人のツユンベリーは、次のように述べている。
「耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。(略)このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうであろう」(『江戸参府随行記』)
 農夫が入念に摘み取っているため、雑草がまったく生えていない。その見事さに驚愕しているようすがうかがえる。
 イザベラ・バード(イギリス/紀行作家)も、「山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、(略)全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。(略)草ぼうぼうの“なまけ者の畑”は日本には存在しない」と、きれいに手入れされた耕地に驚嘆の声をあげた(『日本奥地紀行』)。
 西洋では、広い土地に合理的・科学的な手法を用いて農耕を行なうのが一般的だった。それに対し、日本では小さな平野を極端に集約的に開墾し、美しい耕地をつくる。そして細心の注意を払いながら作物を育てる。そうした日本人の細密な農業手法が、外国人の目には新鮮に映ったようだ。

 日本の農民に学べ!

 そうしたなか、日本の農民や農業を自国の手本にすべきだと主張する外国人もいた。
「少年よ、大志を抱け」の“名言”で有名な北海道開拓の父、ウィリアム・スミス・クラーク(アメリカ/教育者)だ。
 1876(明治9)年、明治政府に招かれ、札幌農学校(北海道大学の前身)の教頭として教鞭をとったクラークは、美しい田畑が牛馬ではなく人間の手で手入れされていることに感心した。そしてアメリカに帰国後、母国の農民を前にした講演で次のように述べ、日本の農業技術の高さを称えたのだ。
「日本の農民は良い農民になる技を持っているのです。日本の整然とした美しい畑を見たら、アメリカ人は恥ずかしいと思うでしょう」(『W・S・クラークその栄光と挫折』ジョン・エム・マキ著)
 時代が下り、1933(昭和8)年に来日したブルーノ・タウト(ドイツ/建築家)も日本の耕地を絶賛している。
「(日本の農民は)極めて綿密細心に農耕や果樹栽培を営んでいる。それゆえ日本の耕作を眺めるのは、大工や漆職人等の仕事を見るのと決して劣らぬ楽しみである」(『ニッポン』)
 日本の農耕を「職人技」とまで述べている。最上級の褒め言葉だろう。
 
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