[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第2章 社会の仕組みと制度

 鎖国に理あり――日本の平和は
 西洋に対して門戸を閉ざしたおかげ?


 知られざる「鎖国」の実態

 江戸時代の日本は、外国との交流をほとんど行なっていなかった。1639(寛永16)年から1853(嘉永6)年のペリー来航までのおよそ210年あまり、徳川幕府は外国との通商・交通を禁止、または極端に制限していたのだ。
 この日本の対外政策を「鎖国」という。当初は鎖国という言葉は使われていなかったが、19世紀の蘭学者・志筑忠雄が1690(元禄3)年に長崎の出島に渡来したドイツ人医師ケンペルの著作『日本誌』の付録の一章を訳出し、「鎖国論」というタイトルをつけた。それ以来、「鎖国」の語が広まったといわれている。
 ケンペルの鎖国に対する意見は、「日本が鎖国をするのには理があり、国民は平和に幸福に暮らしている」という好意的なものだった(『日本誌』)。日本は海で四方を囲まれており、物産も豊富。また、日本人は勇猛で調和を重んじる。そうした理由から、鎖国は正しいというのだ。
 また、幕末明治期に来日したアルジャーノン・バートラム・ミットフォード(イギリス/外交官)は、「外部の動きにまったく左右されずに、先祖代々からの神秘的な隠遁生活を送ってきた公家の中には、自由闊達な意見をすぐに期待するのは難しい人が多くいた」と、閉鎖的な日本の根本の考えの根底に、朝廷の貴族たちの存在があると深い分析をした『ミットトフォード日本日記』)。
 ただし、勘違いしがちだが、「鎖国」といっても、当時の日本は外国との門戸を完全に閉ざしていたわけではない。たしかに幕府はスペインやポルトガルの船の来航、日本人の海外渡航などを禁じたり、オランダ人を長崎の出島に移して集住させたりしたが、一部の国との交流は続けていた。具体的には、対馬・長崎・薩摩・松前の四つのルートを通じて、朝鮮(対馬)、オランダ・中国(長崎)、琉球(薩摩)、アイヌ(松前)などとの交易を行なっていたのである。
 朝鮮との交流を見てみると、日本からの正式な使節が50回以上朝鮮を訪れ、朝鮮から日本への使節、「朝鮮通信使」も12回来訪している。日本でごく普通に生活する朝鮮人や中国人の帰化人もおり、武士・町人・職人など多くの分野で活躍していた。
 つまり幕府は、諸外国との関係を遮断したというよりも、列島規模で交流の統制を行なったにすぎないのである。

 やはり「鎖国」は賢明な政策だった?

「徳川幕府が国を閉ざすことによって、日本の民族が平和的にまたは経済的に豊かに、しかも精神的に自由な生活を営むことができた」(『日本誌(鎖国論)』)
 と、ケンペルがいうように、結果的にみると、鎖国は間違ってはいなかったように思われる。当時、ヨーロッパは植民地主義の時代に突入しており、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスなどの列強が、貿易とキリスト教の布教を目的として、アフリカ・アメリカ・アジアへの侵略を続けていた。
 その危険性を、幕府がいちはやく察知し、西洋人に対する門戸をしだいに閉ざしていったおかげて、日本は植民地化をまぬかれることができたともいえるからだ。
 西洋との交流が少なかったことで近代化が遅れたという側面もあるが、日本人は平和のなかで質の高い文化を維持してきたのである。
 
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