[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第2章 社会の仕組みと制度

 世界屈指の治安のよさ――
 その背景にあったものとは?


 泥棒の少なさは戦国時代から折り紙つき

 日本は治安のよい国として知られており、財布や携帯電話などの貴重品を紛失しても、かなりの確率でそのまま戻ってくるといわれる。また田舎に行くと、外出する際に鍵をかけなくても平気だという地域が少なくない。
 数百年前も似たような状況だったらしく、戦国時代から江戸時代にかけて日本にやって来た外国人は、盗みを働く者が少ないことに驚いている。
 たとえば、日本にはじめてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(スペイン/宣教師)は、「こんなに泥棒が少ないのは珍しいです」と書き残している(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)。
 江戸時代に長崎の出島に着任していたカール・ペーテル・ツユンペリー(スウェーデン/医師・植物学者)も、
「この国ほど盗みのない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない」
 と、治安のよさにほとほと感心していることがわかる(江戸参府随行記』)。

 たった一度の盗みでも死刑!

 日本の治安がよい理由としては、仏教の教えに基づく「利他」の精神が醸成されてきたことがあげられるが、そのほかにも大きな理由が存在した。それは、厳しい刑罰が多かったからだ。ザビエルも次のように分析している。
「(日本で泥棒が少ないのは)法律が厳格に施行されているためです。泥棒がつかまると、生命は決して容赦されません。彼らは盗みの悪徳を極度に嫌います」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡)
 泥棒をすると、容赦なく死刑にされる。現代では、どんな高額の盗みでも、それだけでは死刑にならないが、かつては極刑になることも珍しくなかったのである。
 江戸時代の「勘定書き百箇条」の五十六粂には、窃盗についての刑罰がまとめられている。それによると、戸を閉めている人の家や土蔵に忍び込んでの盗みは、被害の多少に関わらず死罪とされた。
 また、手元にあるものを盗みとる、つまりネコババのような犯罪でも、その金額が10両以上(現代の金額にして100万円前後に相当)、あるいはそれに該当する物品ならば、やはり死罪となった。さらに、罪を重ねて、その合計が10両となっても死罪とされた。これが「10両盗むと首がとぶ」という落語の言葉の由来である。
 ただし、白昼に戸を開け放していたり、人のいないところでちょっとした盗みに入られた場合は、盗まれた側にも落ち度があるとみなされ、入れ墨をされて一定回数叩かれる敲(たたき)刑に減刑された。もっとも、敲刑は大の男が満身の力をこめて50回も100回も叩くというものなので、命にかかかることもあったという。

 驚きの「公正なる」裁判

 江戸時代は、裁判も厳格なものだった。西洋の場合、身分によって罪が軽減されたり、見逃されるケースもあったが、日本の裁判は身分の上下にかかわらず公正に行なわれた。ツユンペリーはこの点に驚きを示し、次のように述べている。
「正義は広く国中で遵守されている。(略)裁判所ではいつも正義が守られ、訴えは迅速かつ策略なしに裁決される。有罪については、どこにも釈明の余地はないし、人物によって左右されることもない」(『江戸参府随行記』)
 このように、戦国時代から江戸時代にかけての日本の良好な治安は、厳しい刑罰と公正な裁判が大きく影響していたものと考えられる。しかし幕末以降、外国人が増えると、それとともに凶悪な犯罪も増え、治安はしだいに悪化していった。そして再び良好な治安を回復するまでには、長い時間を要したのである。
 
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