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第3章 不思議な日常生活 | ||
世界でも稀に見る入浴習慣を、 手放しで絶賛したわけではない 日本人は世界一清潔な国民 日本人は大の風呂好きとして知られている。身体の汚れを落とすのはもちろん、治療に用いたり(温泉)、心身を清めたり、娯楽・社交の場として利用するなど、日本人は昔から風呂に親しんできた。 とくに江戸時代の人々の風呂好きは相当なものだった。上級武上の家には内風呂があり、庶民は、銭湯を憩いの場としても楽しんだ。風呂の種類も、蒸し風呂の一種である「戸棚風呂」、現在のようにお湯に肩までつかる「据え風呂」、桶に鉄の筒を入れて下で火をたく「鉄砲風呂」、桶の底に平釜をつけて湯をわかす「五右衛門風呂」など、さまざまな風呂が次々に登場した。 こうした日本人の風呂好きは、幕末明治期に渡来した西洋人たちをおおいに驚かせることになった。たとえば、幕末に訪日したローレンス・オリファント(イギリス/外交官)は、長崎に上陸した翌日に町に出かけ、次のような印象を書き残している。 「人々もみな清潔だ。というのは、この町で一番よく見かける光景は、婦人たちが家の前、あるいは表通りに向かって開いた玄関先で、バスタブに入って体を洗っている姿であるからだ。私は女性がこれほど清潔にしている国は他に見たことがない」(『エルギン卿遣日使節録』) また、明治時代に日本美術収集に熱を上げたアドルフ・フィッシャー(オーストリア/芸術史家)は、「各家庭にも風呂はあるけれども、東京だけでも毎日30万人以上の人々が利用する800軒の銭湯がある。(略)東京より入浴がさかんなところはない」と断言している(『明治日本印象記』)。 当時のヨーロッパでは、貴族階級であっても風呂に入るのは数力月に1度くらいの頻度だったとされる。当然、庶民はそれより少なかっただろう。庶民の間で風呂に入るのが習慣化したのは、第一次世界大戦以降のことだった。したがって、彼らが日本人の風呂好きぶりに驚いたとしても、なんら不思議ではなかったのである。 ● 風呂が日本女性の老化の原因だった!? 西洋人にとっては、日本人の入浴作法も非常に興味深かったようだ。日本では家族皆が同しお湯に入る。明治時代はまず客が入り、次に家族のなかの男性、次に女性、最後に使用人たちという順番で同じお湯を利用していた。 フィッシャーはこの習慣について、「気持ち悪そう」と述べている。だが、「毎日入浴している人は異常なほど清潔」であるから、「実際にはけっしてそんなことはない」とフォローを忘れない(『明治日本印象記』)。 一方、幕末に来日したラファエル・パンベリー(アメリカ/鉱山枝士)は、「毎日の入浴による衛生上の効果からみた大きな効能は、取り換えのきく肌着をつけないことで帳消しになる」と述べている(『日本踏査紀行』)。日本人は同じ下着を長く着続けるため、せっかく毎日風呂に入っても意味がないというのだ。 いずれにせよ、ほとんどの西洋人が日本人の風呂好きを認め、清潔な国民と評価しているが、なかには、現代人からみると首を傾げたくなるような意見もある。 とりわけユニークなのが、幕末に滞在したエドゥアルド・スエンソン(デンマーク/軍人)だ。彼は「(日本人の娘は)25〜30歳に近づくと美貌は廃れ、顔には皺がよって黄土色になり、顔つきもたるんで身体全体が醜い容貌になってゆく」という。そして、その最大の原因の一つが「毎日のように浴びる熱い湯の風呂である」と推測しているのだ(『江戸幕末滞在記』)。 もう一人、幕末に長崎で日本最初の西洋医学教育を行なったポンペ・ファン・メールデルフォールト(オランダ/軍医)も、日本人の人浴について独特の見解を披露している。 「日本人は三度の食事と同じように熱いお湯に入ることを欲する。(略)摂氏50度というのはざらにあることで、ときにはそれ以上のことすらある。日本人が風呂から出るところを見ると、ちょうどゆでた蝦(えび)のようである。(略)そのような入浴のために大変に身体が弱り、皮膚の抵抗力が弱くなり、(略)入浴中に人が急死することは珍しくない」(『日本滞在見聞記』) たしかに熱すぎる風呂には弊害もあるが、ポンペの見解はいささか言いすぎたろう。とはいえ、日本人の人浴習慣が西洋人の目に奇異に映っていたことは、やはり間違いないようだ。 |
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