[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第3章 不思議な日常生活

 身分の差に関わらず読み書きできた
 江戸時代の文化水準に感心しきり


 日本人の識字率は数百年間ナンバーワン

 教育水準の高さを知る指標の一つに「識字率」がある。日本人はこの識字率が非常に高く、なんと数百年にわたって世界一の座を維持し続けている。幕末明治期には、多くの外国人が日本人の識字率の高さに驚き、書物に残した。
 まず黒船でやって来たカルブレイス・マシュー・ペリー(アメリカ/軍人)は、「読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である。(略)彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、(略)ヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントンやボナパルトについても的確に語った」(『ペリー提督日本遠征記』)と絶賛している。
 ペリーと同じアメリカ人で、地質学者のパンペリーもまた、「日本の教育は、ヨーロッパの最も文明化された国民と同じくらいよく普及している。(略)日本には、少なくとも日本文字と中国文字で構成されている自国語を読み書きできない男女はいない」(『日本踏査紀行』)と驚きをもって伝えている。
 実際、幕末の武士階級の識字率は100%だったといわれる。このことは、武士が役人だったことを考えるとなんら不思議ではない。驚くべきは、町人・農民ら庶民層も4割ほどは、読み書きができたとみられていることである。
 なかでも、江戸の子どもの識字率はとくに高かっか。7〜8割、江戸の中心街に限れば9割に達した。同時代のイギリス・ロンドンの下層階級の子どもの識字率が10%以下だったことを考えると、いかに高い比率かがわかるだろう。

 上も下も“読んだり書いたり”を楽しんだ

 江戸時代の日本では寺子屋が普及し、多くの子どもたちに、主に「読み書きそろばん」の教育が施されていた。そのおかけもあって、識字率がここまで高まったと推測されている。
 出版(木版)技術が向上し、本が庶民のもとに届くようになったことも、識字率アップに貢献した。江戸時代には、さし絵のついた黄表紙や滑稽本、人情本などが人気を集め、歴史や伝説を題材にした読本も次々に出版された。こうして本を読むことが庶民の娯楽となり、日本の出版文化は独自の発展をとげた。
 イギリスの外交官であると同時に作家でもあったオリファントは、「(日本では)普通の兵士ですら、絶えず本を読んでいる」と感心している(「ザ・タイムズ」)。明治中期、東京・駿河台にニコライ堂(通称)を建立したニコライ・カーサトキン(ロシア/宣教師)もまた、日本の庶民がいかに読書に親しんでいるかを詳しく述べている。
「(日本には)実に多くの貸本屋があって、信じ難い程の安い料金で本は借りて読めるのである。しかも、こちらからその貸本屋へ足を運ぶ必要がない。なぜなら本は毎日、どんな横町、どんな狭い小路の奥までも配達されるからである!
 (略)本はどれも手擦れしてぼろぼろになっており、ページによっては何か書いてあるのか読みとれないほどなのだ。日本の民衆が如何に本を読むかの明白なる証拠である」
(ニコライの見た幕末日本)
 現代人が、レンタルDVDでドラマや映画を楽しむように、当時の庶民たちも物語や実用書を借りて読んでは、面白がったり、勉強したりしたのだ。こうした文化が、文字に対する親しみを植え付け、教養や道徳的な素養を高めていったのであろう。
 読書だけではなく、詩や書を楽しむ庶民もいた。
 明治時代に来日したイリヤ・メチニコフ(フランス/動物学者・細菌学者)は、「日本では、昼食後に何人かの友人が集まって酒を酌み交わす時間があると、必ずすずりと筆が用意され歌や詩を書きつける。日本人は、幼い頃から詩を山ほど知っているのだ」と記す(『回想の明治維新』)。
 メチニコフのいう歌や詩とは、和歌や俳諧、川柳などのことだと推測される。日本の美しい自然を愛し、それを繊細な丈庫で綴ったメチニコフは、そんな日本の庶民の文化水準の高さに感銘を受けたようだ。
 日本人は、「読み書きそろばん」ができると、日常生活や仕事で役立つだけではなく、人生を楽しく有意義にすることができることを知っていた。だからこそ、積極的に学ぶ姿勢を示し、こぞって子どもを寺子屋へ行かせて勉強に励ませたのである。
 
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