[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第3章 不思議な日常生活

 生活は厳しくても
 満ち足りた生活をおくれた理由とは?


 「笑い上戸で心の底まで陽気」

 西洋人がはじめて日本を訪れ、日本人の姿を目の当たりにする。そのとき、彼らが最初に抱く印象はおおよそ同じだった。それは、日本人がじつに幸福そうな国民であるということだ。
 幕末に下田を訪れたペリーは「人々は幸福で満足そう」(『ペリー提督日本遠征記』)、シェラード・オズボーン(イギリス/外交官)も「誰もがいかなる人びとがそうありうるよりも、幸せで煩いから解放されているように見えた」(『日本への航海』)と述べている。ディリーもまた、函館での印象を「健康と満足は男女と子供の顔に書いてある」(『日本、アムールおよび太平洋』)と記している。そのほか、リュドヴィック・ボーヴォワル(フランス/青年伯爵)の「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」(『ジャポン1867年』)、ルドルフ・リッダウ(スイス/外交官)の「日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける」(『スイス領事の見た幕末日本』)、ウィリアム・グレイ・ディクソン(イギリス/英語教師)の「上機嫌な様子がゆきわたっている」(『ランドオブザモーニング』)など、日本人が幸福そうでしかも陽気だったという記述は、枚挙にいとまがない。

 年貢の取り立ては厳しかったが……

 こうした西洋人の感想は、現代の日本人にとって意外なように思われる。江戸時代、庶民は厳しい身分制度のもとにおかれていた。とくに農民は、年貢の取り立てが厳しく、その生活は決して楽ではなかった。ラザフォード・オールコック(イギリス/外交官)は、「生産物のうち、余分なものがあれば、すべて大名とその家臣によって吸いとられてしまう」と記す(『大君の都』。明治時代に入ってからも、多くの人々は苦しい生活を続けた。それでも西洋人の目に日本人が幸せそうに映ったのは、少なくとも食べるには困らないだけの国力があったからだと考えられる。
 江戸時代後期には、毎年3000万石以上の米が収穫されていたとされる。これは、推定3000万人の日本人が米だけ食べたとしても十分に生きていける生産量だ。米の大部分は年貢として納めなければならないとしても、麦や豆、イモ、雑穀類なども栽培していたし、大規模な飢饉などはそうそう起こらなかった。したがって、それほど飢えに苦しむことはなかったのである。
 また農業技術が進んで生産力が高まると、年貢に出しても残るほどの余剰米があることがあったり、桑・麻・綿・アブラナ・野菜・果物・茶などさまざまな作物を栽培し、それらを商品として流通させ、現金を得ることができるようにもなった。
 日本の農業について、「ザ・タイムズ」(1861年11月1日付)は、次のように記している。
「江戸付近の土壌は、非常に肥沃で、あらゆる穀物の栽培に適しているように思われる。作物は非常に繁茂しており、雑草あるいは石ころなどまったくみかけない。畑はそう大きくはないが。利用可能なところはすべて利用されており、限りない穀物が栽培されている」
 さらに、藩レベルでも特産品の栽培を奨励。現代の日本人が親しんでいる宇治の茶、甲斐のブドウ、紀伊のミカンなどは、江戸時代に競って生産されるようになった、地方ごとの特産物である。
 そしてなんといっても、当時の人々はわずかなモノしか必要としなかった。その点が、大量生産・大量消費が基本の現代人との最大の違いである。日本の庶民は、狭い住居にひしめき合って暮らし、家財道具や衣類は非常に少なかった。だが、西洋人の残した記録によると、彼らがそれを苦にするようすはまったくなかったという。
 必要最低限の暮らしができれば、日々幸せで楽しい……。日本人はそんな民族だったのである。
 
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