[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第4章 礼儀正しく実直な人々

 当時から遺憾なく発揮された、
 対価を求めない「真心」と「気づかい」


 誰もが称賛する無償の親切心

 日本人が外国人に称賛される点として、親切さも忘れてはならない。幕末明治期に来日した西洋人の多くが日本人の温かい心や気づかいを称賛している。
 日瑞(にっすい)修好通商条約調印のために日本にやって来たエメ・アンベール(スイス/時計生産組合会長)は、横浜の海岸を訪れたときの出来事を楽しげに記している。
「子供たちは真珠色の貝を持ってきてくれ、女たちは、籠の中に山のように入れてある海の無気味な小さい怪物を、どう料理したらよいか説明するのに一生懸命になる。根が親切心と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である」(『幕末日本図絵』)
 また、アンベールが農村を歩き回っていると、ある農民が自宅に招いてくれ、庭の花を切ってもたせてくれた。彼は代金を払おうとしたが、絶対に受け取ろうとしなかったという。
 日本にはチップの習慣がないので、外国人からお金を差し出されて戸惑ったのではとも考えられるが、アンベールの言うとおり、やはり親切心と真心に基づく行為ゆえに、対価を求めなかったのだろう。
 バードが回想するのは、旅行中に世話になった馬子や見知らぬ女性の親切さだ。旅慣れたバードでも、やはり異国の地での旅行生活は心細くもあったのだろう。日本人の温かさにふれたエピソードを、折に触れて書いている。
「(馬子たちは)馬から下りるときには私をていねいに持ちあげてくれたり、馬に乗るときには背中を踏み台にしてくれた。あるいは両手にいっぱいの野苺を持ってきてくれた」(『日本奥地紀行』)
 この野苺は嫌な薬臭がしたそうだが、バードはせっかくなので食べたという。馬子たちの親切を無にしてはいけないと思ったのだろう。
 また、東北で見知らぬ女性たちに助けてもらったことも印象に残ったようだ。
「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく扇子をもつてきて、まる一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受け取らなかった。彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら、恥すべきことだ、と言った」(同書)
 現代でも、知らない相手から丁寧なおもてなしを受けると、困惑してしまうことがある。このときのバードもそんな気持ちだったに違いない。
 アンベールやバード同様、エドゥアルド・スエンソン(デンマーク/軍人)も、日本の庶民の親切さに心を打たれた。
「ぽつんと建った農家が華やかな色に輝く畠のあちこちに散在していた。男も女も子供らも野良仕事に精を出し、近づいていくと陽気に『オヘイヨ(おはよう)』と挨拶をしてくる。(略)老若を問わずわれわれに話しかけてきて、いちばん見晴らしのよい散歩道を案内してくれたり、花咲く椿の茂みを抜けて、半分崩れかかっている謎めいたお堂に案内してくれたりする」(『江戸幕末滞在記』)
 まるで童話のワンシーンのような情景である。異邦人に気軽に話しかけ、親切にしてくれる日本人が、スエンソンをやさしい気持ちにさせたのだろう。

 度が過ぎた親切心はあだとなることも

 一方で、日本人の親切さが不快感を与えることもあった。チェンバレンは次のように書いている。
「歩いて丘を上ろうと思って、人力車の車夫に降ろしてくれと言う。ところが、車夫がその言いつけに従うまでには、たぶん4回も言わなければならないであろう。車夫のほうでは、あなたはきっとそんなことを本気で言っているのではないと思っているのである」(『日本事物誌』)
 車夫にとっては、親切心があだになってしまった格好だ。チェンバレンも車夫の真意を理解はしているが、このときは、どうにも我慢がならなかったらしい。
 では、どうして日本人、とくに下層階級の庶民は過度の親切を押し付けるのか。
 そのことについてチェンバレンは、「主人がやるよりも自分のほうがもつと良くやれるのだという、下級者側の根深い信念に基づくものである」と分析した(同書)。
 つまり、度が過ぎた親切心から、日本のことをよく知らない主人の指示には従わないことがあるというのだ。カルチャーギャップの典型といえるだろう。
 
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