[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第4章 礼儀正しく実直な人々

 外国人教師も惚れ込みおおいに発奮した、
 驚異的な野心と学習意欲


 生半可ではない向学心に燃えた生徒たち

 江戸時代、日本はいわゆる鎖国政策をとっており、ごく一部の国や地域としか交流をもたなかった。そのため、幕末明治期に西洋人が多数来日しはじめると、多くの日本人が西洋の進んだ学問や技術を吸収すべく、勉学に励むようになる。
 教える立場にあった西洋人は、日本人の向学心の高さに驚いた。みな学習熱心で、意欲に満ち溢れていたからだ。
 モースは、「私はもう学生達に惚れ込んでしまった。これほど熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ」と、教師として手放しの喜びようである(『日本その日その日』)。
 さらに、「これ等の青年はサムライの子息達で、大いに富裕な者も貧乏な者もあるが、皆、お互いに謙譲で丁寧でありまた非常に静かで注意深い」と、勉学に向かう学生たちの真剣な態度に感心している(同書)。
 日本で多数の灯台を建て、「日本の灯台の父」と呼ばれるようになったリチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリス/土本技師}もまた、日本人の学習意欲の高さを称賛した一人だ。
 ブラントンは学校を設立し、武士階級の若者を1回につき20〜30人ずつ受け入れた。多くの生徒は英語を学習した。工学に取り組み、機械の製図や写図を行なう者、灯台業務用船で航海実習を行なう者もいた。
 ブラントンはその生徒たちを、「高度の専門の学問を急速に修得しようと野心に燃えていた(略)。学業の進歩は驚異的なものであった」と称賛した(『お雇い外国人が見た近代日本』)。
 また、あまりに向学心が高すぎるせいで、熱意の足りない教師に対して不満をつのらせ、授業をボイコットする生徒たちがいたとも述べている。
 ブラントンの学校の生徒たちの意気込みは、生半可なものではなかったようだ、学ぶことに対して、これほど積極的な学生は現代ではまずお目にかかれない。

 鎖国下でも知識はアメリカの大卒以上

 教えを請いにやって来る学生が、思いのほか博識であることを指摘したのは、ジェームス・カーティス・ヘボン(アメリカ/宜教師・医師)だ。彼は、日本の学生たちのことを、「アメリカの大学卒を凌ぐほどの学力を身につけています」と母国の雑誌に発表している(「スピリット・オブ・ミッション」)。
 じつは江戸時代の日本では、非常に高度な教育が行なわれていた。
 鎖国下であっても、オランダとは長崎・出島での貿易が許されていたため、日本人はオランダの学問である蘭学を通じて、悪戦苦闘しながらも世界の最新情報を得ていた。
 また、各藩が設立した藩校では、藩の中枢を担う者を育てるために、儒学のほか、医学・洋学・兵学や天文学なども教えていた。さらに、出島のオランダ商館付き医師フィリップ・フランツ・シーボルト(ドイツ/医師)が長崎の郊外に設立した鳴滝塾や、緒方洪庵が大坂に開いた適塾などの私塾では、全国から集まった門人が切磋琢磨していた。こうした充実した教育システムのおかげで、日本人の教育水準は高く保たれていたのである。
 ヘボンによると、学生たちは、オランダ語を翻訳した「酸素・水素・動脈・神経・軟骨」といった言葉の意味をすでに知っていた。さらに、蘭学を通じて高等数学や代数・幾何などにも精通していたという。大きな衝撃を受けたヘボンは、「日本人は実に驚くべき国民です」と書いている(「スピリット・オブ・ミッション」)。

 庶民も知識欲旺盛で勉強熱心だった

 向学心が高いのはインテリ階層だけではなかった。庶民からも向学心旺盛な気質が見受けられた。
 日米和親条約の結果、初代駐日総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリス(アメリカ/外交官)は、日本の庶民が非常に勉強熱心であると指摘している。下田の人々が、アメリカ人をつかまえては体の一部分を指し示して英語で何というか聞いたり、「How much dollar?」を「浜千鳥(ハマチドリ)と、よく似た日本語の発音に直して覚えたりしているというのだ。
 庶民も一つでも多くのことを学ぼうとする。身分が違うから知識を増やしても意味がない、などと考は考えず、知識欲や好奇心が旺盛な点を外国人は評価したようだ。
 
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