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第5章 「別世界」の食べ物と装い | ||
いまは世界を席捲する「和食」も、 当時は散々な言われよう 「肉もなく牛乳もなくパンもなく……」 ペリーは日本の食事の少なさを嘆いたが、日本の食習慣そのものに不満を漏らす西洋人も少なくなかった。たとえば、バジル・ホール・チェンバレン(イギリス/日本学者)である。 明治初期に来日し、日本語や日本文化を研究したチェンバレンは、「日本料理は、ヨーロッパ人の味覚をとうてい満足させることができない。(略)肉もなく、牛乳もなく、パンもなく、バターもなく、ジャムもなく、コーヒーもなく、サラダもなければ、よく料理した野菜の十分な量もない。いかなる種類のプリンもなく、とろ火で煮た果物もなく、新鮮な果物も比較的少ない」と、日本にない食品や料理を次々と列挙して不満をぶちまけている(『日本事物誌』)。 明治以前の日本には、獣肉を食べたり、牛乳を飲んだりする習慣は定着していなかった。果物を煮てジャムにしたり、野菜を生で食べたりすることもなかった。加熱調理した野菜や新鮮な果物はあったが、西洋人には量が足りなかっただろう。 さらにチェンバレンは同書で、「食物はきれいさっぱりとして油気もなく、眺めると綺麗なほどである。しかし、これを食べて生きてゆかねばならぬとすると――とても駄目である」とも述べており、悲嘆に暮れているようすが伝わってくる。 「米と薩摩芋と茄子と魚ばかり……」 日本の食習慣のなかで、西洋人をもっとも悩ませたのは、彼らがいちばんのご馳走としていた肉や乳製品を食べられなかったことだろう。 エドゥアルド・スエンソン(デンマーク/軍人)が、「ここではお米が最上最高の栄養源で、それに卵、魚、海老、乾豆、野菜が少々」(『江戸幕末滞在記』)というように、日本人は基本的に肉を食べることをしなかったのだ。 実際にはごく稀に鶏やイノシシを食べることもあったが、公然とは食されておらず、滋養を得るための「薬喰い」と称された。 その理由は、宗教の影響によるものだといわれている。神道では肉食は穢れとみなれており、仏教では殺生は禁じられている。そのような観点から、肉食はタブー視されるようになったというのだ。 だから、肉が一般に流通することはなく、西洋人が肉や乳製品を食べようとしたところで簡単には手に入らない。 エドワード・S・モース(アメリカ/動物学者)は、「ここ2週間、私は米と薩摩芋と茄子と魚ばかり食って生きている」と自嘲し、「君たちが米国で楽しみつつあるうまい料理の一皿を手に入れることが出来れば、古靴はおろか、新しい靴も皆やってしまってもいい」とまで書いている(『日本その日その日』)。 西洋料理が恋しくて恋しくて仕方なかったのだろう。 牛乳は子牛に飲ませるもの? 明治時代に入ると、政府は近代化の一環として国民に肉を食べるよう奨励した。それまで肉食に慣れていなかった国民が戸惑うと、政府は明治天皇に肉を食べてもらい、肉食を宣伝。これをきっかけに、都市部では牛鍋を食べるのがブームとなった。 しかし、それでもまだ多くの日本人は、「外国人は血のしたたるような肉を食べる」と恐れ、バターやチーズの匂いまでも嫌った。 やがて大規模な家畜の飼育がはじまり、北海道には開柘使によってたくさんの牧場がつくられた。しかし、アドルフ・フィッシャー(オーストリア/芸術史家)が北海道旅行で牧場を訪れると、やはり肉食は定着しておらず、「大部分の日本人は肉を食べないどころか、牛乳やチーズを敵視している」とあきれている(『明治日本印象記』)。 フィッシャーはまた、ある女性が子どもに母乳を飲ませているのを見て、牧場でとれた牛乳をどうしているのかという疑問を抱いた。その疑問をぶつけてみると、「子牛に飲ませている」との答え(同書)。せっかくの牛乳を、どうして人間が飲まないのかと拍子抜けしたに違いない。 海外に出かけた日本人が長く現地で生活していると、白いご飯が食べたい、新鮮な魚を食べたいと切望するようになる。幕末明治期に日本にやって来た西洋人も、これとまったく同じ思いにとらわれ続けていたのである。 |
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