[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第5章 「別世界」の食べ物と装い

 西洋人には愛されなかった?
 江戸女性の“愛されメイク”


 目指せ!「白い肌、細い目、小さい口」

 現代の日本では、メイクをしてもナチュラル風に仕上げるのが常識で、厚化粧は敬遠される傾向にある。しかし、戦国から江戸時代にかけての女性たちはみな厚化粧だった。肌の白さこそ美しさの基本とされ、白粉(おしろい)をベースとして何度もせっせと塗り重ねたのだ。不自然だろうが何だろうが、とにかく白いほどよかったのである。
 当時の女性の化粧について、西洋との違いを詳しく観察しているのがフロイスだ。
「ヨーロッパでは、化粧品や美顔料が顔に残っているようでは不手際とされている。日本の女性は白粉を重ねる程、一層優美だと思っている」「ヨーロッパでは大きな目を美しいとしている。日本人はそれをおそろしいものと考え、涙の出る部分の閉じているのを美しいとしている」(『ヨーロッパ文化と日本文化』)
 たしかに、日本の古墳の壁画や平安時代の絵巻物を見ると、女性はみな色白に描かれている。口は糸を引いたように細く(引目)、口は小さい。江戸時代の浮世絵の美人画も同じだ。女性たちは、それを理想としていたのだろう。

 白く塗りたくるのは表情を隠すため

 しかし日本人女性の厚化粧は、外国人の目には「やりすぎ」と映ることが多かった。どんな女性が美人かという基準は、国によっても時代によっても異なるが、それにしても、とくに江戸末期の女性たちは厚塗りが過ぎたようだ。
 ケッヘルは、「アジアのどんな地方でも、この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない」と、日本人女性を褒めている(『江戸参府旅行日記』)。だが、化粧については批判的で、次のように厚塗りを残念がっている。
「いつもこってりと白粉を塗っているので、もしもその楽しげで朗らかな顔つきが生気を示すことがなかったら、我々は彼女たちを操り人形だと思ったであろう」(同書)
 スエンソンに至っては、「社会の最下層の女性でさえ、紅や白粉の類を使い、塗りたくればきれいさが増すと思っているようだが、外国人の目から見ると身の毛もよだつような印象しか与えない」と、さんざんな言いようだ(『江戸幕末滞在記』)。幕府に幽閉されていたヴァシリー・M・ゴロウニン(ロシア/軍人)もまた、日本人女性の容貌を「死人のよう」と述べている(『続・日本俘虜実記』)。
 ではなぜ、日本の女性たちは、みな真っ白に塗りたくる化粧をしたのか。何を思って、毎日化粧に多大な時間と労力を注ぎ込んでいたのだろう。
 現代の化粧は、自身の自然な表情や魅力を引き出すために行なうが、当時の化粧は喜怒哀楽を押し隠すためのものだったのだ。感情を露わにするのは不作法で、はしたないことと考えられており、化粧をして表情を読み取られないようにするのが礼儀とされていたのである。
 江戸後期に書かれた「都風俗化粧伝」には、化粧するときは自分の心を清くして父母に孝を尽くし、嫁して舅姑によく仕え、夫に貞節を守り……と、まるで修身の教科書のようなことが延々と説かれている。
 女性なら誰でも美しくありたいという願望があるうえに、白塗り化粧ならば、道徳的にも推奨された。だから女性たちは、誰はばかることなく化粧をし、真っ白になった自分の顔に満足していたのである。
 だが時代は変わる。明治時代以降、しだいに薄化粧が主流になっていったのだ。
 グリフィスは、茶店の17歳くらいの娘について、
「姿が美しく、(略)広い帯できちんと着物をむすび、首には白粉が塗ってある。笑うと白い美しい歯が並ぶ。真っ黒い髪が娘らしく美しく結ってある」
 と生き生きとしたようすを伝え、「日本で最も美しい見物は美しい日本娘である」と断言する(『明治日本体験記』)。
 このような美意識が現代にも受け継がれ、いまは厚化粧より、ナチュラルなメイクが理想とされるようになったのであろう。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]