[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第6章 男と女と幸福な子ども

 「アダムとイヴ」を連想させる!?
 全裸の男女の“ありえない光景”


 「煉獄」にたとえられた、銭湯の恐怖

 日本人は世界でもまれにみる風呂好きである。そのことは、いまも昔も変わらないが、江戸時代の入浴スタイルは現在とは大きく違っていた。
 当時、自宅に風呂を備えていたのは上級武上くらいで、庶民が入浴する際には銭湯に行くことと決まっていた。その銭湯の多くが混浴だったのである。
 現代の銭湯といえば、番台を挟んで男湯と女湯に仕切られた構造か一般的だ。しかし江戸時代の銭湯は、男湯と女湯が分かれていないのが普通で、脱衣場も流し場も双方からまる見え。浴槽にも男女が一緒に入っていた。
 採光が悪く、流し場から浴槽への入り口が暗かったため、風紀を乱す者は少なくなかったといわれる。それでも当たり前のように混浴が行なわれていたのだ。
 そんな日本の混浴文化に触れた西洋人は、みなほとんど驚愕している。
 たとえば、19世紀末に日本を訪れたイギリス人女性は、銭湯のようすを、キリスト教世界の「煉獄」(死者の霊魂が苦しみを受けながら最後の審判を待つ場所)にたとえた。つまり彼女の目には、銭湯が地獄のような光景に映ったのだ。
 もともと日本には、古くから共同で風呂に入る習慣があった。一方、西洋では風呂に入ることすら一般的ではなく、清潔を保つ手段といえば、下着を取り替えたり、露出している部分を拭く程度だった。
 キリスト教の禁忌に触れることもあり、男女が一緒に人浴するなど、とうてい考えられないことだったのである。

 混浴に聖なる世界を見た!

 その一方で、日本の混浴文化に理解を示す西洋人もいた。「プラントハンター」として幕末に来日しかロバート・フォーチュン(イギリス/植物学者)は、地方の村で混浴の情景を目撃し、次のように書いている。
「子、孫、曾孫など、数世代にわたる丸裸の男女が、一緒に混浴していた。これは外国人には奇抜な見物だった。(略)公衆浴場や個人の風呂は、雑踏する都市の中でも、このような田舎でも、日本中どこでも見られる。(略)西洋の厳格な道徳家達は、男女混浴の方法は、徳義の理念に反するものとして、非難するに違いない。(略)人類の堕落以前のエデンの園に生存した人間と同様に、無邪気で天真爛漫な表現にすぎないと言う者もいる。私はこのような入浴の方法は、日本の習慣だということができる」(『幕末日本探訪記』)
 またトロイアの遺跡を発見した考古学者ハインリヒ・シュリーマン(ドイツ/考古学者)は、「夜明けから日暮れまで、禁断の林檎(りんご)を齧(かじ)る前のわれわれの先祖と同じ姿になった老若男女が、いっしょに湯をつかっている」と驚いた。そしてはじめて銭湯の前を通り、多数の全裸の男女を目にしたときには「なんと清らかな姿だろう!」と、思わず叫んでしまったと告白している(『シュリーマン旅行記』)。
 日本の混浴文化を目の当たりにしたフォーチュンとシュリーマンは、いずれも『旧約聖書』の「創世記」に描かれる世界をイメージしたようだ。すると彼らの目には、日本人の男女が、さながらアダムとイヴのように映っていたのかもしれない。
 しかしながら、日本の混浴文化を理解する西洋人はやはり少数派で、快く思わない者のほうが多かった。「道徳心をもつ国民性がありながら、文化的には後進的」と評した記録も残っている。
 そうした意見を気にした明治政府は1868(慶応4)年、外国人居住地としていた築地周辺での混浴を禁止する。さらに1869(明治2)年には、東京府内すべてを混浴禁止とした、その後も混浴禁止令や浴場施設の規則の制定を継続した。
 それでも混浴文化はなかなかなくならなかったが、1900(明治33)年に12歳以上の男女混浴を厳しく禁じた内務省令が出ると、混浴文化はいよいよ風前の灯火となった。
 
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