[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第6章 男と女と幸福な子ども

 戦国から江戸時代にかけて
 大きく変化した「妻」の立場


 みっともないから外に出るな!?

 自由恋愛ができず、親の意思で結婚を決められていた江戸時代の武家の男女。みなさぞかし窮屈さを感じていただろうが、その窮屈さは結婚してからも変わらなかった。とくに女性は家父長制的な家制度のなかで、大きな苦労を強いられた。
 幕末の日本にやって来たエドゥアルト・スエンソン(デンマーク/軍人)は、結婚後の女性の生活について、次のように書いている。
「女のいちばん大事な仕事はやはり家を守ることで、鏡のように光るまで磨きあげる。台所をとりしきり、(略)毎日その日の買い物をし、自分だけでなく子供にも着物を着せ、忙しくて休む暇もない」(『江戸幕末滞在記』)
 家事・育児に時間をとられて、あくせくしているようすが伝わってくる。ただし、身分の上下によって行動に制限が課されていた。
「下の方の階層の女は相変わらず客を呼んだり呼ばれたり、男たちの前に姿を現したり近所とのつき合いに直接参加したりする許可を得ることができる。(略)上流の婦人は(略)、夫から毎日ハーレムに軟禁されたような状態におかれ、外出しての気晴らしも、(略)婦人が公衆の面前に姿を現しては夫婦双方の威厳に関わる恐れがあるという理由から、ほとんど許されることがない」(同書)
 下層階級の婦人はともかく、上流階層の婦人はみっともないから外出させてもらえないというわけである。
 またスエンソンは、「(結婚した女性は)剃り落された眉と黒く染められた歯が、それまでの虚栄心と享楽好みを完全に捨て去ったことの目に見える証となる」と述べている。当時の女性は眉を剃り、歯をお歯黒にしていた。そうした日本的な化粧が、彼の目には醜く映ったのかもしれない。

 簡単に離縁され、自らは離婚できず…

 西洋人は、日本人の離婚事情についても言及している。
 戦国時代の日本でキリスト教の布教を行なったルイス・フロイス(ポルトガル/宣教師)は、「ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる」「日本では、しばしば妻たちの方が夫を離別する」と記す(『ヨーロッパ文化と日本文化』)。
 フロイスによると、戦国時代の離婚は女性の恥になることではなかった。また、一般に離婚は夫の意志に基づいて行なわれたが、女性から夫に三行半を突きつけるケースもあったという。
 当時の女性は遺産の相続権や財産の所有権を認められており、それによって夫からの独立性を保証されていた。そのため、親に決められて結婚したとしても、あっさりと離婚できた。そう考えると、戦国時代の女性はそれなりに自由だったといえるのかもしれない。
 ところが江戸時代になると、妻は夫の離縁状をとらなければ離婚できない状況になる。女好きのろくでなし夫であろうが、暴力を振るう夫であろうが、離縁状を書いてもらえなければ、いくら妻が望んでも離婚できなくなってしまったのである。
 しかも女性は、夫の気分しだいで簡単に離婚された。義父や義母に従わない、子を生めない、嫉妬、汚らわしい病、饒舌で家事がおぼつかない、盗癖といった理由があれば、夫は離婚できた。チェンバレンが、「夫の気のままに離婚されることもあり得る」と記している(『日本事物誌』)とおりである。
 そんな女性が唯一離婚を請求できる方法が、尼寺への駆け込みだ。ただし、尼寺であればどこでもいいというわけではない。江戸時代に幕府が認めていた「駆け込み寺」は、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺で、この寺で足掛け三年在寺すれば、夫から離縁状を受け取ることができた。
 明治時代に入ってからも、家庭のなかで女性を軽視する風潮は続いた。小泉八雲の名で知られるラフカディオ・ハーン(イギリス/文学者)は、次のように説明している。
「家族の長の権力は、いまでも一家のうちでは最高のものであって、全員が家長に服従しなければならない」(『神国日本』)
 現代の日本に比べると、かつでの女性はあまりにも窮屈な結婚生活をおくっていた。まさに「結婚は人生の墓場」といえるような状況だったのである。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]