[幕末明治]
日本は外国人に
どう見られていたか

来日外国人による「ニッポン仰天観察記」
「ニッポン再発見」倶楽部 三笠書房 
第6章 男と女と幸福な子ども

 一夫一婦制が基本ながら、
 公然と行なわれていた妾制度


 妾をもつのは男の甲斐性

 1980年代半ば、中年男性が小指を立てて、「私はコレで会社を辞めました」とつぶやく禁煙グッズのCMが話題になった。コレ=小指は女性の意味だ。周知のとおり、日本のサラリーマン社会では、プライベートなスキャンダルが出世に影響する。妻帯者の不倫や男女関係のトラブルは、当事者同士のトラブルになるのはもちろん、会社での立場に大きくかかわってくる。そうした世情を背景とするCMだった。
 江戸・明治期はどうだったのだろうか。当時も現代と同じく一夫一婦制がとられていたが、夫が妾(愛人)をもつことは珍しくなかった。
 アメリカの日本文化研究の第一人者ウィリアム・エリオット・グリフィス(アメリカ/科学者)が、「子供ができるという条件で一妻が決まりである」と記すように(『明治日本体験記』)、一夫一婦制は、あくまで妻が跡取りを生んだときに適用される決まりごとだった。
 不幸にして跡取りができない場合は、「夫は家系を守るための子孫を育てるために女を置くことが公然と認められ、またその妻からも強くすすめられる」ことが多かっと(同書)。妻の本音はどうあれ、自分で跡収りを生めない妻は、夫に妾をもてと勧めたというのである。
 グリフィスは、「日本人は正妻は一人だが、養えるなら一人でも二人でも女を囲ってよい」とも書いている(同書)。つまり、当時の男性にとって、妾をもつことは男の甲斐性だった。社会的立場が危うくなるどころか、妾は稼ぎのある人間であることを証明するものだったわけだ。

 女性の不義密通は問答無用で切り捨て

 一方、女性が不貞をはたらこうものなら、厳罰が科された。長崎・平戸のオランダ商館長フランソワ・カロン(フランス/商人)は、密通した女性に対する処置について、次のように記述している。
「男は公娼または公娼類似の婦人の元に通い、多くの妾を抱えても無罪であるが、妻は(略)、ある男と秘密に会話したというような小さな罪のために、死を以て罰せられる」(『日本大王国史』)
 19世紀初頭の世相を描いた「亨和雑記」という随筆にも、不貞をはたらいた妻が夫に成敗された話が載っている。それによると、ある日、城から帰宅した旗本の大井新右衛門が、自分の養子として迎えていた古五郎という若者と自分の妻を、問答無用で斬り殺した。二人が不義を働いたからだという。
 事の真相は不明だが、当時は不義密通者を成敗することが許されていたため、新右衛門はまったくのお咎めなし。吉五郎の遺体は、実家に引き取らせたが、妻の死骸は取り捨てとなった。つまり、ろくに葬ってもらえずに捨てられたのだ。

 それでも強く優しく、かいがいしい明治の女

 このように江戸明治期には妾制度が公然と認められる一方で、妻の不貞は重罪とされる男尊女卑の時代だった。しかし江戸時代、庶民の家庭では婦人の権限がある程度認められており、一家の家計をやりくりするのは女性の役目とされた。
 明治時代の女性の家庭生活については、日露戦争の頃に来日したハーバート・G・ポンティング(イギリス/写真家)が詳しく描写している。
「日本では婦人たちが大きな力を持っていて、彼女たちの世界は広い分野に及んでいる。家庭は婦人の領域であり、宿屋でも同様である」(『英国人写真家の見た明治日本』)
 また、ポンティングは日本各地を旅行したとき、行く先々で日本の女性から手厚いもてなしを受け、以下のように絶賛している。
「日本を旅行するときに一番すばらしいことだと思うのは、何かにつけて婦人たちの優しい手助けなしには一日たりとも過ごせないことである。(略)もしも貴方を世話して寛がせ、どんな用でも足してくれる優しく明るい小柄な婦人たちがいなければ、魅力ある行楽向きの国とはならなかったであろう。彼女たちはいつも笑顔を絶やさず、外国人の客がどんな不合理なことであっても、朝であろうが、夜であろうが、いつでも客の言いつけを喜んでしてくれるのだ」(同書)
 日本の女性の優しさや甲斐甲斐しい働きぶりは、遠い異国を訪れた右も左もわからない西洋人に、大きな安らぎと幸福感をもたらした。そして日本の印象アップにも大きく貢献していたのである。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]